こんにちは、けいタンです。
近代日本の歴史について説明します。
今回取り上げるテーマは?
少し前から大学の集中講義のように連続して「近代日本の歴史」について解説しています。
参考した本は油井大三郎さんの「避けられた戦争」です。
第1講は話のプロローグとして、1920~1940年代の全体像を俯瞰的に眺めてみました。
第2,3講義は、ヴェルサイユ会議と日本について、第4講はヴェルサイユ条約の内容がいかに日本社会に影響を与えたのかについて、第5講は日米両軍による戦争計画について、
第6講は米国における共和党政権の誕生とワシントン会議の提起について、第7講はワシントン会議での対立と合意について、第8講は米国がなぜ「門戸開放」にこだわったのかについて、
第9講はワシントン会議に対する日本社会の対応について、第10講は日本における軍部権限抑制論の台頭について、第11講はワシントン条約に対する日本軍部の反応について、
第12,13講は米国の日系移民排斥と反米感情の噴出で1924年の移民法の成立について、第14,15講は1924年の米国移民法に対する日本社会の反発について、
第16講は国際協調派の苦悩について、第17,18講は中国の政権分立と国権回復運動の始まりについて、第19,20講は英米の帝国縮小戦略への転換について、第21,22講は第一次幣原外交と中国の国権回復運動について触れていきました。
そして今回第23講では、中国の国権回復と日本社会の反応に関して考えていきましょう!
あなたに考えてもらいたいコト
この集中講義の最大の目的は「20世紀前半の世界の戦争について振り返るとともに、どうすれば戦争(対立・コントラスト)を避けることができるのか?」
…すなわち、戦争を避ける道はなかったのか(戦争以外の別の選択肢を取ることができなかったのか)?ということについて考えていきます。
今の現代社会でも、ウの国とロの国が対立しています。
そして同時に、近代日本の歴史を学習する最大の理由は、過去の出来事から新たな知見を手に入れ、現代社会で応用することだと考えます。
あなたも近代日本、近代世界の功罪についてや戦争を避けるために必要なことを私と一緒に考えていこう!
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↑幣原外交の功罪について考えてみよう…確かに国内の評価は良くなかったが中国をもとより世界と強調する外交は戦争を避けるための必要事項ではないか…
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↑民族派が台頭していた時期の国際派は苦悩を抱いていた。また、同時に米国移民法に関しても日本の世論や米国でも多少なりとも動きがあったようだ
・合わせて読むべき関連記事:近代日本の歴史 第14講~米国移民法に対する日本社会の反発(part1)
↑米国の移民法は当時の日本に大きな影響を与えた。多くの民族派の人物が反米感情をあらわにするが、本当に米国と戦争をして勝つ自信はあるのだろうか?
中国の国民革命と日本社会の反応(part1)
日本人の中国国民革命イメージ
中国の国民革命について見ていきます。広州で1925年7月に国民党政権の成立し、1928年6月に国民革命軍は北京へ入城しました。
国民革命軍には二重の課題がありました。1つは、地方の軍閥政府を打倒し、国民党政権の下で中国の統一を行うこと、もう1つは古い体質を残す軍閥を打倒し、民主化(孫文の三民主義)を達成することでした。
国権回復については、列強諸国と外交交渉を行い、民族運動(外国製品ボイコット)によって圧力をかける革命外交を実行しました。
しかし、北伐の過程では中国滞在の外国人の生命・財産が危機されており、列強諸国は中国に対して強い反発を持つようになりました。
また、日本は日清戦争の勝利によって中国人の統治能力を軽く見る風潮が強まっていました。ところが、中国が自己主張を強めることによって、日本も戸惑いそして反発の感情を抱くようになりました。
すなわち、中国の国権回復運動を「排日」とか「反日」として全否定する風潮が生まれ、同時に「対支膚意論」=「悪人を征伐する」…つまり、軍事力で運動を鎮圧することを正当化する世論が強まってきたのです。
大アジア主義のジレンマ
大アジア主義者の中には、中国革命に共感し日中が連携してアジアの解放を推進すべきと考える人が現れました。したがって、このような人たちにとっては「対支膺懲論」は大きなジレンマであるのです。
頭山満という1881年に玄洋社を創設した人物は、孫文と親しく辛亥革命を支援し、日本の21カ条要求を反対していました。
少し前のおさらいにはなりますが、孫文は1924年11月に神戸で大アジア主義演説を行っていましたね。そこで、「日本は西洋の覇権の手先にならないように」と言っていたのを覚えているでしょうか。
しかし、その当時の日本は反中感情を持つようになりました。(欧米と同じような考え方)そのため、孫文は親しかった頭山満へ不満を持ち、頭山は満州の日本の特殊権益の還付については「オイソレとは応じられない」と答えています。
つまり、頭山は中国についてよりもアジアの解放に重きを持っていたのです。だが結局は、アジアの解法と日本の在中利権が衝突し、日本の在中利権である満州を保護する考えが優先すべき本音でした。
このように、アジア主義者の多くは、日本の在外利権確保と両立できる論理…つまり、日本を盟主とする大アジア主義を唱えていたのです。
北一輝と中国の国権回復運動
1919年に猶存社を設立した北一輝も大きなジレンマを抱えていました。それは、辛亥革命の指導者である宋教仁の要請についてでした。
それは、中国滞在(1911年10月〜1913年4月)時に辛亥革命を現地で目撃したことで、1915年の「支那革命外史」では、日米の協調的握手について記述しましたが、1919年の「ヴェルサイユ会議に対する最高判決」では、「支那革命外史」と少々異なる内容が記されているのです。
また、北一輝が捕まった二・二六事件(1936)での逮捕後の憲兵隊調書では、中国の「排日運動」の背後には米英が関与しており、元寇のように日本を叩き漬そうとしていると述べました。さらには、そもそも中国には自治能力がなく、中国の「排日運動」は中国固有の要求ではなく、米英に唆されたものだと解釈しました。
すなわち、北一輝は日本本位の大アジア主義者だったのです。
大川周明の場合
北一輝と同じく猶存社の大川周明は、反西洋的な世界史認識を持ち、戦争政策を思想面で支えた人物でした。
ヴェルサイユ・ワシントン体制はアングロ・サクソンの世界支配の体制と把握し、幣原外相などは「国際正義」とみなしてきた態度を批判しました。
また、排日運動の背後には北一輝と同じく、英米の扇動があり、1921年の「復興亜細亜の諸問題」では、民族独立運動の展開について言及していたが、なぜ中国の民族運動を「抗日」「侮日」といった文脈でしか把握できなかったのかが気になる問題です。
その問題に関しては、第一次世界大戦後の世界体制を「アングロ・サクソンの世界支配体制」と考えたこと返ら始まり、反英米意識はワシントン条約などによる中国の主権尊重を明記した意義を無視し、中国における日本の利権を死守するのは自明であり、そのため国権回復運動米英の策謀であるという流れにつながるのです。
まとめ~アジア主義者(民族主義)はジレンマを抱えていた!
今回の内容はいかがだったでしょうか。
少しでも中国の国権回復と日本社会の反応に関して知ることができれば大丈夫です!(まずは知ることから何事も始まる)
次回は、今回の続き(part2)について解説していきますので、お楽しみに!!
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それでは今日はここまでとします。最後まで見ていただきありがとうございました。
また別の投稿でお会いしましょう。けいタン
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