こんにちは、けいタンです。
今回は日本史のことについて話していきます。
今回のテーマについて
今回取り上げるテーマは、またまた古墳時代の次である飛鳥時代の外交政治について
「白村江での敗戦が契機となって生まれた新生日本」という内容について見ていくことにしましょう。
というものも、この白村江の戦での敗北が、新しい日本のはじまりのきっかけとなったわけです。
そんな「白村江での敗戦と新生日本」について簡単にですが、見ていくことにしましょう。
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今回のテーマに対する結論
まずは、今回のテーマの結論から見て学びを深めていくことにしましょう。
白村江(はくそんこう・はくすきえ)の戦と新生日本について、
白村江の戦いに敗れた後の国土防衛の危機感こそが、新生「日本」誕生の原動力となったのです。
では、このことについて次の項目から詳しく見ていくことにしましょう。
防衛に徹せよ!
朝鮮半島の百済と倭国
中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)が大化の改新を進めていた7世紀半ばでは、
朝鮮半島で百済(くだら)が、唐・新羅の連合軍に侵攻されるという緊迫した事態を迎えていました。
ちなみに、前回の「中央集権国家への道とクーデター」では、
大化の改新についてまとめていますので、まだ見ていない方はこちらから見ることをおススメします。
では、話を元に戻していきましょう。
唐・新羅の連合軍に侵攻されていた百済の遺臣たちは、再興を願って倭国へ支援を要請したのです。
また、朝鮮半島での足場(=権力・勢力)を失いたくなかった倭国としても、
この百済の再興は願ってもないことであったのです。
百済の再興は叶わなかった
663年に、倭国の軍勢はその大軍を率いて朝鮮半島の白村江(はくそんこう・はくすきえ)へと
進撃しましたが、唐の水軍にかなうことができずに大敗北を期しました。
そしてこれによって、倭国は唐と新羅からの侵攻に備えなければなりませんでした。
なので、太宰府周辺に城を築き、各地に古代朝鮮式山城を築いて、防衛を固めたのです。
壬申の乱が勃発する
天智天皇の後継者の争い
中大兄皇子は、天智天皇として即位するものの、
わずか3年で崩御(=天皇が亡くなること)してしまいました。
なので、天智天皇の後継者を見つけないといけません。
そして、その後継者をめぐって、天智天皇の弟である大海人皇子(おおあまのおうじ)と、
皇太子で中央有力豪族の後ろ盾がある大友皇子(おおとものおうじ=弘文天皇)が
対立することになりました。
672年には、大海人皇子が挙兵した壬申の乱が勃発し、地方の豪族を味方につけた
大海人皇子が勝利して、天武天皇として即位しました。
中央集権国家の土台がそろそろできる
ちなみにですが、この壬申の乱の影響で今まで有力だった豪族たちは没落していきました。
そして、日本初の律令である大宝律令の制定や、藤原京への遷都、「日本」という国号の誕生など、
中央集権国家が盤石なものとなったのは、天武天皇とその妻である持統天皇の治世においてからでありました。
おまけ~倭国から日本へ変わったとき
そもそも「日本」という国号は、通説によると、日本が中国大陸から見て東=太陽が昇る方向
にあったため「日の本(ひのもと)」と名付けられたとされています。
また、701年に施行された大宝律令に「日本の天皇…」という記述があることから、
「日本」という国号が正式に利用されたのは、天武天皇以降という説が有力になります。
まとめ~天武天皇による新生日本がはじまる!
いかがだったでしょうか。
それでは今回のまとめを行っていきます。
確認しておくべき白村江の戦いと壬申の乱に関する5つのこと
- 7世紀半ばでは、朝鮮半島で百済が、唐・新羅の連合軍に侵攻されていた。
→再興を願って百済は倭国へ支援を要請した。 - 663年に、倭国の軍勢はその大軍を率いて朝鮮半島の白村江へと進撃したが、唐の水軍によって大敗北に終わる。(白村江の戦)
→倭国は唐と新羅からの侵攻に備えなければならなかった(大宰府の強化・山城など) - 天智天皇の後継者をめぐって、天智天皇の弟である大海人皇子と、皇太子で中央有力豪族の後ろ盾がある大友皇子が対立する。
→672年に、大海人皇子が挙兵した壬申の乱が勃発し、大海人皇子が勝利して天武天皇として即位した。 - 中央集権国家が盤石なものとなったのは、天武天皇とその妻である持統天皇の治世においてから。
→日本初の律令である大宝律令の制定や、藤原京への遷都、「日本」という国号の誕生 - 「日本」という国号は、通説によると、日本が中国大陸から見て東=太陽が昇る方向にあったため「日の本(ひのもと)」と名付けられたとされている。
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それでは今日はここまでとします。最後まで見ていただきありがとうございました。
では、またお会いしましょう。けいタン
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