こんにちは、けいタンです。
今回は日本史のことについて話していきます。
今回のテーマについて
今回取り上げるテーマは、またまた古墳時代の次である飛鳥時代から奈良時代の外交や都市について
「日本の玄関口であり防衛拠点であった大宰府」という内容について見ていくことにしましょう。
前回の白村江での敗戦と新生「日本」では、
白村江の戦いに敗れた後の国土防衛の危機感こそが、新生「日本」誕生の原動力となった
ということについて見ていきましたね。
つまり、古代の大宰府は大陸からの侵攻を防ぐ防衛拠点であり、
白村江の戦い以降は、防備が増強されたのです。
そして今回のテーマは、飛鳥時代や奈良時代といった古代の防衛拠点であった大宰府について
「日本の玄関口であり防衛拠点であった大宰府」という題目で、考えていきましょう!
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今回のテーマに対する結論
まずは、今回のテーマの結論から見て学びを深めていくことにしましょう。
冒頭でも簡単に述べましたが、特に白村江の戦い以降は、
大陸からの侵攻に備えて築かれた大宰府は、対外政策の基地としての役割も担ったのです。
では、このことについて次の項目から詳しく見ていくことにしましょう。
移転した防衛拠点
白村江の戦いによる防衛の強化へ
そもそも大宰府という名がはじめて「日本書紀」に登場するのは、推古天皇17年(=609年)の項目で、
筑紫大宰府(ちくしだざいふ)として記されています。
しかしながら、このとき大宰府が置かれていたのは現在の大宰府跡ではなく、
その北の博多湾に面した那津(なのつ)と呼ばれたところでありました。
また、宣化(せんか)天皇元年(=536年)の項目では、
「那津官家(なのつのみやけ)」と書かれており、磐井の乱で懲りたヤマト政権が、
朝鮮半島との外交および軍事を司る役所として設けたのが始まりであったと考えられます。
そして663年に、白村江の戦いで大敗すると、唐や新羅からの侵攻が懸念されるようになり、
より防備がしやすい現在の位置へと移されたのです。
ちなみに、磐井の乱については「古墳が語りかけるヤマト政権の歴史」という記事で登場しましたね。
ではせっかくなので、ここで簡単に磐井の乱についてどのようなものだったのか復習していくことにしましょう。
また、白村江の戦いについては下にある前回の記事のリンクを参考にしてください。
※参考~前回の記事:日本史~白村江での敗戦と新生「日本」
↑白村江での敗戦による海外防衛の強化や天智天皇の後継者争いとして勃発した壬申の乱について分かりやすく簡潔にまとめました!(「白村江の戦い」について気になる方はここから!)
復習~磐井の乱から分かるヤマト政権の強さ
527年、ヤマト政権の命令で筑紫(つくし:現在の福岡県)を支配していた豪族の
磐井という人物が新羅(朝鮮半島に属する国の1つ)と結び大規模な反乱を起こしましたが鎮圧されました。
このことを磐井の乱といいます。
結局のところ磐井の乱は、ヤマト政権は豪族への支配をより強める結果となりました。
二重三重の頑丈な防衛
増築された軍事施設
先ほどの内容の続きをしていきましょう。
というのは、大宰府の移築に伴って、周辺に軍事施設も増築されました。
敵軍が博多湾から南下してくるのを想定して、御笠川(みかさがわ)上流に水城(みずき)と呼ばれる
水堀を設けたほか、北東にそびえる大野山に城を築くなど二重の防衛を固め、
有明海からの侵攻に対しては、基山(きざん)山頂に基肄城(きいのき)を築き、
万全の態勢を敷いていました。
また、壱岐や筑紫国などには防人(さきもり)を置き、烽火(とぶひ)を作って備えていたそうです。
烽火とは、簡単に言えば、敵の襲来を告げる煙を上げる装置のことで、
「のろし」とほとんど同じと考えてよいでしょう。
さらに、外国からの使節との交渉を有利に進めるために、
那津に外交使節をもてなすための筑紫館(つくしのもろつみ)を築きました。
ちなみに、筑紫館はのちのち「鴻臚館(こうろかん)」と改名されました。
大宰府の意味と今後について
なんか、水城(みずき)とか基肄城(きいのき)とか防人(さきもり)とか烽火(とぶひ)など、
ややこしい名前のもののオンパレードのように感じる方もいるかもしれませんね。
ですが、これらの防衛施設から分かるように、
那津から移行された大宰府には、頑丈な防衛としての軍事施設がたくさん作られたということが分かれば、大丈夫です!
とにかく当時の大宰府は、日本の玄関口としての役割以外にも、
白村江の戦いで敗れた唐や新羅による侵攻を想定して、多くの軍事施設が存在している
巨大な防衛拠点であったと理解してください!
ちなみにかなり年月が進みますが、
鎌倉幕府ができると律令下の施設であった大宰府の必要性はなくなってしまいました。
また近年の調査では12世紀前半には、防衛拠点としての大宰府はすでに荒廃していたと考えられています。
まとめ~当時の大宰府は玄関口であり防衛拠点であった!
いかがだったでしょうか。
それでは今回のまとめを行っていきます。
確認しておくべき防衛拠点としての大宰府に関する3つのこと
- もともと大宰府が置かれていたのは現在の大宰府跡ではなく、その北の博多湾に面した那津と呼ばれたところであった
→663年に白村江の戦いで大敗すると、唐や新羅からの侵攻が懸念されるようになり、より防備がしやすい現在の位置へと移された - 大宰府の移築に伴って、周辺に軍事施設も増築された
→その例として、水城や基肄城、防人、烽火、筑紫館などがある - 当時の大宰府は、日本の玄関口としての役割以外にも、白村江の戦いで敗れた唐や新羅による侵攻を想定して、多くの軍事施設が存在している巨大な防衛拠点であった
→しかし年月が経過して、鎌倉幕府ができると律令下の施設であった大宰府の必要性はなくなってしまった
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それでは今日はここまでとします。最後まで見ていただきありがとうございました。
では、またお会いしましょう。けいタン
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