信教の自由Ⅱ~宗教活動を規制することは可能か~150(憲法⑨)

憲法

こんにちは、けいタンです。

今日は日本国憲法(憲法)について話していきたいと思います。

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今回のテーマについて

そして今回のテーマは、前回に引き続き「信教の自由」について、

「信教の自由Ⅱ~宗教活動を規制することは可能か」というものになります。

つまり、新興宗教や信仰の自由、宗教の規制について考えていくのですが、

まずは前回の投稿内容である「信教の自由Ⅰ~国と宗教は分けるべきなのか」について、

簡単な復習をしてから、今回の内容に入っていきたいと考えています。

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信教の自由と国教・新興宗教について…

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今回のテーマに関する日本国憲法

第20条1項:信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受 け、又は政治上の権力を行使してはならない。

第20条2項:何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。

第20条3項:国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。

※参考 日本国憲法条文一覧リンク 日本国憲法|条文|法令リード (hourei.net)

復習~新興宗教と信教の自由

前回の内容の復習をしよう!

信教の自由の最大の問題である新興宗教

今日では、多くの社会学者や憲法学者が、

新興宗教の活動こそ「信教の自由」の問題を最もはっきり表していると思っています。

ここで、新興宗教とは、日本では1970年代以降に台頭したもの(=カルト)のことを指し、

その具体的な例としては、「エホバの証人」や「統一教会」

さらには、地下鉄サリン事件を引き起こした「オウム真理教」はもっとも有名な教団ですよね。

どんな宗教ももとをただせば新興宗教だったのです。

そして、新しい宗教は、新しい真実や見方、生き方などを主張するものですから、

従来の社会秩序と衝突しがちなのは当たり前です。

そして、その社会との摩擦を乗り越え、社会との共存に成功したものが、

既存宗教といわれるようになるのです。

新興宗教の見方と法廷戦争

また新興宗教は、全く信じない人からすれば、そもそも宗教にさえ見えないかもしれません

あと、信者の言動や外見が、奇妙であったり不快なものであったり、

さらには現在の社会秩序にとって危険ではないか、と思われるような宗教集団もあるため、

国は手をこまねいて見ているべきではない、と主張する人が出てくるのも無理はありません。

一方で、新興宗教団体や信者の側からすれば、

不信心な人たちが自分たちの宗教活動を邪魔しているように感じるでしょう。

そして、社会と摩擦を起こしたときに自分たちの信じる宗教を擁護するためには、

争いを避けるべきではない、と考える教団もあり、

この争いは、暴動や集団自殺という形で爆発することも考えられます

しかしながら、現代の日本においてはある程度の法治主義が確立しているので、

紛争は暴力によってではなく、法律上の争い、

すなわち法廷闘争という形で戦われることが多くなりました。

いわば、法廷の宗教戦争というものです。

そしてこれは、多くの場合、憲法の「信教の自由」をめぐる問題として争われます。

憲法20条の内容と国教

日本国憲法で、広く「信教の自由」といわれる20条を内容から大きく2つに分けると、

  1. 個人やその集団(団体)の信教の自由を保障する規定
  2. 信教に対するもっとも大きな脅威である国教を否認する規定 

になります。

そして、このような2段構えの保障になっているのは、歴史的な理由によるのです。

つまり一言でいうと、宗教と国は密接に関係していたのです。

さらにそこでは、国教という制度があるのが普通でした

すなわち、特定の宗教や宗派が国と結びついて、政治権力を与えられたり、

優遇されたりしていたというわけです。

ところが、ヨーロッパでの宗教戦争や紛争の悲惨な経験から、

国教といった制度は国民を幸福しないのではないか、と考えるようになりました。

その結果、宗教は個人の自由に任せ、国と宗教とを分けるのが望ましい、とされるようになったのです。

…少し長くなりましたが、以上が前回の内容のおさらいになります。

そして、ここからは について説明していきます。

個人や団体の信教の自由

個人や団体の自由とはいかに?

宗教の定義と意義

ここでは、信教の自由の中心である「個人や団体の信教の自由」をとりあげることにします。

ところで、宗教というのは一般的には、

神や仏といった人間を超えるものが存在すると確信し、畏敬崇拝する心の働きをいいます

つまり、聖なるものを認めることを意味するのです。

また、超越的な存在を崇拝する心を行動としてあらわすのは当然のことといえ、

宗教儀式や布教、宗教団体の結成といった宗教活動は、そこから生ずる自然な姿と考えられます。

そこで憲法は、このような内心の働きと外的な宗教活動を含めて、信教の自由として保障しているのです。

宗教による印鑑や壺の販売はOK?NG?

そして新興宗教についても、この「宗教」の観念にあてはまっていれば、信教の自由の保障が与えられます。

したがって実際のところ、宗教の定義は非常に広いので、ある新興宗教を宗教でないとするのは無理だといえます。

ですから、その外的活動(物の販売など)も、まったくその宗教と無関係といえないかぎり、

仏像やお護りだけでなく、印鑑や壺の販売も信教の自由で保護されることになるのです。

信教の自由の限界はどこか?

すべてがOKということではない…その限界とはどこだろう?

外部の宗教活動と規制

先ほどもいいましたが、宗教が内心の働きにとどまる限り、それを規制することはできません

そして、その保証というのは絶対です。

というのも、心の中までは、親きょうだいといえども、国といえども立ち入ることは許されない

と考えられるからです。

しかし、外部にあらわれる宗教活動については、規制することが認められます

これは、外部的な活動となると、他人の権利や自由とぶつかる可能性もあり、

絶対的に保障したのでは秩序を保つことができないからです。

これについては、憲法も13条で「公共の福祉」に反する場合には、規制できるとしていますね。

では、その規制はどこまで認められるのでしょうか?

「著しく反社会的」が意味する内容

認められる規制の範囲については、

宗教活動の一環として、たとえば一般社会の目からみて奇妙な宗教儀礼や集団生活でも、

それが「著しく反社会的」でない限り、「信教の自由」による保障があたえられることになります

つまり、法律で規制できないのです。

ここで考えないといけない問題は、「著しく反社会的」というのを、

なにを基準にして判断するのかということです。

これについてはおそらく、「社会通念」によって決めると思います。

つまり、日本人の多数の意見を基準にするわけです。

しかし、日本の多数者は特にこれといった自覚もなく、

伝来の宗教的信仰と宗教的戒律の中にごく普通に生きて来たのです

具体的に言い換えると、わたしたちは、初詣や先祖供養を宗教活動とはほとんど自覚していませんよね。

なぜなら、社会通念というものに、既存の宗教的秩序が含まれているからなのです

信仰の内容と関わるかどうかが肝心!

ここで、また別の問題が考えられそうです。

「社会通念というものに、既存の宗教的秩序が含まれている」

これは新興宗教にとってもフェアな基準といえるのか?ということです。

これに関しては、いろいろな意見があるかと思いますが、

個人的には次のように考えます。

「著しく反社会的」ということは、問題となっている状況で決まります。

信仰の内容と関わる場合には、「著しく」ということを厳格に解釈しないと

新興宗教の側に酷な結果となるでしょう。

というのも、単なる社会通念に反しえないというのでは、

新しい世界観や倫理観を提供するという新興宗教の役割が果たせないからです。

なので、既存宗教は、新興宗教の主張が気にいらないなら論争で対抗すべきだと考えます。

すなわち、原則として、宗教相互間の競争にまかされるべき分野と考えるのです。

信仰の自由と規制の細かなライン

それに対して、信仰内容に直接関係しない場合、

「著しく」ということをさほど厳格に解釈する必要はないと思います。

したがって、信仰内容に直接関係しない場合は、社会通念上「ひどい」といえればよいのではないでしょうか。

なぜなら、このような規制は、信仰自体の妨げになるとは思われないからです。

たとえば、宗教団体による印鑑や壺の販売といった行為は、信教の自由に関するとしても、

霊感商法といった詐欺まがいの場合には、規制できるのは当然と思われるということです。

実際に判例を見てみよう

判例から分かることを考察してみよう!

ハッキリと「著しく反社会的」 といえる場合はともかく、

現実の社会ではもっときわどい形で信教の自由の問題が起こります。

これについて最高裁は2つの判決で、より具体的な判断基準を示しました。

判例1~エホバの証人の信徒であった学生

その1つは、「エホバの証人」の信徒であった高専の学生が、

その信仰上の理由から必修科目であった剣道実技の授業に参加せず、留年・退学となった事件です。

これに対し最高裁は、本人の不利益がきわめて大きい一方、剣道実技の代替科目を認めるという方法

でも教育目的は達成できたはずである、といった具体的な衡量の結果、

学校側の措置は「社会観念上著しく妥当を欠き」違法であるとしました。

判例2~オウム真理教に対する裁判所による解散命令

もう1つは、オウム真理教に対する裁判所による解散命令が、

信教の自由に反するとして争われた事件です。

最高裁は、この解散命令はもっぱら宗教法人の世俗的側面に着目してのもので、

解散命令制度の目的も合理的であるとし、それにのっとって行われた解散命令は必要かつ適切であり、

違憲ではないとしました。

いずれの判決についても、「著しく反社会的」といった一刀両断ではなく、

かなり細かな配慮をしていることに注目して、判決について考えてみるといいのではないでしょうか。

まとめ~信教の自由の問題はかなり複雑なもの!

いかがだったでしょうか。

今日は「最後のまとめ」がありませんが、結構ボリュームのある内容だったと思います。

家族や友人と信教の自由について話し合いましょう!

ここまで、お付き合いしてくれた方は少しでも「信教の自由Ⅱ~宗教活動を規制することは可能か」

ということについてちょっとは意識してくれたんじゃないでしょうか。

まずは、とにかくいろんなことを知ることから始まります。

いろんな情報を踏まえたうえで自分のなりの意見を持ってもらったらいいですね!

そしてまた、こういう議題で友達や家族とディスカッションしてみるのも面白そうですね。

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それでは最後まで見ていただきありがとうございました。

それでは、またいつかお会いしましょう。けいタン
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