こんにちは、けいタンです。
今回は日本史のことについて話していきます。
今回のテーマについて
今回取り上げるテーマは、またまた古墳時代の次である飛鳥時代の政治社会について
「中央集権国家への道とクーデター」という内容について見ていくことにしましょう。
というものも、この飛鳥時代の中央集権国家の道のりは、
クーデターから始まったのです。
そんな「中央集権国家への道とクーデター」について簡単にですが、見ていくことにしましょう。
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今回のテーマに対する結論
まずは、今回のテーマの結論から見て学びを深めていくことにしましょう。
中央集権国家への道とクーデターについて具体的な事例で確認してみると、
蘇我入鹿(そがのいるか)暗殺事件というのが起こったのですが、
この事件は中央集権国家の始まりである、あの有名な「大化の改新」のきっかけとなったのです。
では、このことについて次の項目から詳しく見ていくことにしましょう。
蘇我氏が滅亡する
復習~蘇我氏と仏教について
前回や前々回でも確認しましたが、飛鳥時代では蘇我氏の勢力が大きかったですね。
特に前回の「日本にもたらされた仏教~」の内容では、
蘇我氏が仏教を容認して、廃仏派の物部氏を倒し、それ以降政治にも仏教を取り入れていましたね。
そんな力の強かった蘇我氏の話の続きをまずはしていきます。
独占状態の蘇我氏
聖徳太子(厩戸王)が亡くなると、蘇我氏の専横が目に余るようになっていきました。
蘇我馬子の後を継いだ蝦夷(えみし)は権威を振るい、
例えば有名なものでは、蝦夷の息子である入鹿(いるか)を独断で大臣(おおおみ)という
位に就かせました。
さらに、自分の館を「上の宮門(みかど)」、蘇我入鹿の館を「谷(はざま)の宮門」と呼ばせ、
大王家をないがしろにし、挙句の果てには(大王家が)蘇我氏に対抗しうる存在だとして、
聖徳太子(厩戸王)の子どもである山背大兄王(やましろおおえのおう)を死に追いやったのです。
こんなの蘇我氏(特に蝦夷)による独占状態すぎますよね。
こんな時代で暮らすことを考えただけでもゾッとします。
中大兄皇子と中臣鎌足の策略
このような惨事に危機感を抱いた人がいます。
これが中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)で、中臣鎌足(なかとみのかまたり)と計画を立て、
蘇我入鹿を暗殺を試みました。
そして朝鮮三国からの使者を迎える式典の最中に、大極殿において、自らの手で蘇我入鹿を
斬殺したのです。
この出来事を歴史では「乙巳(いっし)の変」といいます。
大化の改新が始まる
中央集権国家の確立を目指す
先ほどの乙巳の変で、蘇我氏は滅亡しました(権威が大きく下がった)。
そして蘇我氏の代わりといわんばかりに、実権を握った中大兄皇子は、
政変の翌日に早くも孝徳天皇を即位させ、「大化の改新」といわれる
政治改革を推し進めていきました。
中大兄皇子…思ったことやりたいことはすぐに実行に移すタイプですね。見習いたいものです(笑)
翌646年(大化2年)には「改心の詔(みことのり)」というものを発して、
土地と人民を国の所有物と定める公地公民制への転換や、
祖・調・庸の税制改革、班田収授法による土地制度の改革などに取り組み、
天皇を主体とする中央集権国家の確立を目指したのです。
またこの時期に、天皇のサポートを行う右大臣・左大臣といった役職を作り、
律令官制の原形ができたのです。
まとめ~蘇我氏に対するクーデターから大化の改新へ!
いかがだったでしょうか。
それでは今回のまとめを行っていきます。
確認しておくべきクーデターと大化の改新に関する4つのこと
- 蘇我馬子の後を継いだ蝦夷は権威を振るい、蝦夷の息子である入鹿を独断で大臣という位に就かせた。また大王家が蘇我氏に対抗しうる存在だとして、聖徳太子(厩戸王)の子どもである山背大兄王を死に追いやった。
- このような状況下で危機感を抱いた中大兄皇子は、中臣鎌足と計画を立て、蘇我入鹿の暗殺を試みる
→ある式典の最中に、大極殿において、自らの手で蘇我入鹿を斬殺した。(乙巳の変) - 実権を握った中大兄皇子は、孝徳天皇を即位させ大化の改新といわれる政治改革を推し進めていく。
→646年(大化2年)には改心の詔を発する。 - この改新の詔では、公地公民制への転換や祖・調・庸の税制改革、班田収授法による土地制度の改革などに取り組み、天皇を主体とする中央集権国家の確立を目指した。
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それでは今日はここまでとします。最後まで見ていただきありがとうございました。
では、またお会いしましょう。けいタン
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