こんにちは、けいタンです。
今日は日本国憲法について話していきたいと思います。
今回のテーマについて
そして今回のテーマは「自己決定権」です。
近年では、憲法は自己決定権を保証しているとよくいわれています。
しかしながら、日本国憲法の条文のどこにも「自己決定権」という概念も言葉も見当たらないのです。
ということは、前回取り上げた「プライバシー権」などと同じように
自己決定権は新しい人権の1つなのでしょうか?
実際は非常に非常に紛らわしいのですが、自己決定権は新しい人権ではないようです。
そこで今日のテーマは、
「自己決定権とは一体どういうものとして、どのように憲法・法律上では保護されているのか?」
ということについて考えていきます。
皆さんも今回のテーマである「自己決定権」について少しだけ考えて見てみましょうね。
・合わせて読みたい前回の関連記事:プライバシー権~個人情報と自己コントロール~037(憲法③) – (keitan-zatsugaku.com)
↑ネット社会での「プライバシー」の立ち位置とは?
法律的観点からしっかりと解説しています!
では早速「自己決定権」について始めていきます。
今回のテーマに関する日本国憲法
第13条:すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。
※参考 日本国憲法条文一覧リンク 日本国憲法|条文|法令リード (hourei.net)
人間は自己決定する動物
自己決定権とは何なの?
冒頭で、自己決定権は新しい人権ではないということについてお話ししましたね。
では、自己決定権とは一体どんな人権なのか?
ということについて初めは時間をとりたいと思います。
例えば、多くの保障されている人権の中の1つに「営業の自由(職業選択の自由)」というのがありますね。
これはもちろんのこと「営業をしてもよい権利(職業を選ぶことができる権利)」なのですが、
よくよく考えてみると、「○○の自由」といったような自由権はすべて、
その本質として「何かをする、もしくはしない」の自己決定権があるのです。
つまり自己決定権とは、
これといった特別の人権の名称ではなく、自由一般の本質をいいあらわしたものなのです。
機械ではない人間
仮に、生活の一つひとつが規則によって拘束されていたらどうでしょうか。
息苦しい世界ですよね。生き地獄みたいなもののようです。
すなわち、自分の判断で自己決定できないということは、
どちらかというと、人間よりも機械に近い存在になるでしょうね。
そんな縛られた世界では誰でも生きている気がしませんよね。
人間は機械ではありません。
人間は自己決定する動物なのです。
ですから、このような自己決定権、もしくは一般的な行動の自由の保障といったものが、
日本国憲法第13条の「幸福追求権」に含まれているという解釈をとるべきだといわれているのです。
制約を受けやすい自己決定権の一例
議論される3つの自己決定権
実際に多くの人に議論される自己決定権は、大きく分けると以下の三つになります。
- 危険行為
- 生と死
- ライフスタイル
例えば、1ではシートベルトやヘルメットを着用せずに運転すること、
2では、子供を産む・産まない権利や安楽死・尊厳死など、
3では、髪形や服装の自由や同性愛の自由などがその具体例になります。
これらの共通点は、実際に制約を受けやすい自己決定権の代表例になるという点ですね。
特に、安楽死に医者や家族が手を貸してしまうと殺人罪に問われることもあります。
同性愛に関しても一部の国では禁止されています。
どうして制限を受けるのか?
ではこのようなものは国家からの制限を受けやすいのでしょうか。
大きな原因の一つとして、憲法や法律といったような国会の意思というものは、
日本のような民主主義の世の中で考えると、多くの常識的な人の意見を反映しているからなのです。
常識人が特殊な人たちの自己決定の自由を制限している
分かりやすい例として、2の生と死の問題について考えてみましょう。
生と死の問題は、先ほどにもいいましたが、妊娠中絶や安楽死など、
道徳という多くの人の常識が介入しやすいテーマなのです。
他人の生きざまや死にざまというのは、本来は自分には関係のない出来事なのですが、
生も死も自分にはコントロールできない運命だから、何とか道徳や宗教などといった共通のルールでもって、
その意味合いというものを画一化したくなるのでしょうか。
言い換えれば、だれかが勝手な生や死の方法(妊娠中絶や安楽死など)をとると、
自分の生や死の解釈に動揺をきたす人たちが、その勝手を許そうとしないというわけです。
3のライフスタイルについてもLGBTQと呼ばれる性的少数者の「自分らしい」生きざまというのも、
いろいろと制限されているようにも感じます。
自己決定権の残された問題
しっかり考えると、自己決定権には残された問題が数多くあります。
簡単にまとめると以下のような問題が残されているのです。
- 自己決定といっても、「いったい何について決めるのか」ということ
⇒人間は家族や地域、社会のかかわり合いがなければ生きていくのが困難である。なので別の言葉で言い換えると、個人はいろいろな関係に縛られているともいえる。 - 自己決定したつもりでも、実は自分以外の誰かが決めてしまっているのではないかということ
⇒例えば実際には、多くのアメリカ映画のごく一部しか日本に来ていない。ということは、この映画が見たいと思っても国家などの制限や決定により見ることができない可能性があるといえる。
このような問題を踏まえ、自己決定権を厳密にいうのであれば、
自己決定権の対象となる選択肢が見えないところで狭められていることのないように、
とくにそれらが何らかの政治的意図のもとでなされることのないように、
監視していく努力とそのための制度が必須になるでしょう。
幸福追求と自己決定
では最後に、
人間は自分の寿命や運命が分からないからこそ、人は自己決定の自由を信じて今日にも自分の幸福を追求していますね。
ということは、毎日の自己決定は自分の可能性を試す行為であり、自分探しの行動なのです。
将来のわからない自分についてたくさんの自己決定を行う生活は、
ときには大変でしんどい人生でもありますが、これこそが人間の大きな本質なのです。
すなわちこれ(自己決定)がなければ、人間はただの機械に過ぎないということなのです。
まとめ~機械と人間に違いは自己決定するかどうか!
いかがだったでしょうか。
少し長くなりましたが、今回のまとめをして終わりとしましょう。
確認しておくべき自己決定権に関する7つのこと
- 自己決定権は、これといった特別の人権の名称ではなく、自由一般の本質をいいあらわしたものである。
- 人間は当然ながら機械自己決定する動物である。
- 制約を受けやすい自己決定権の一例として、危険行為・生と死・ライフスタイルの3つが大きく挙げられる。
- 上の3つの自己決定権が制限される大きな原因は、国会の意思は民主主義の世の中だと、多くの常識的な人の意見を反映しているから。
- 自己決定といっても、「いったい何について決めるのか」や自己決定したつもりでも、「実は自分以外の誰かが決めてしまっているのではないか」といった問題もある。
- 自己決定権を真剣に考えるには、自己決定権の対象となる選択肢が見えないところで狭められていることのないように監視していく努力とそのための制度が必須になる。
- 毎日の自己決定は自分の可能性を試す行為であり、自分探しの行動であり、人間の本質でもある。
家族や友人と自己決定権について話し合いましょう!
ここまで、お付き合いしてくれた方は少しでも自己決定権について意識してくれたんじゃないでしょうか。
まずは、知ることから始まります。いろんな情報を踏まえたうえで自分のなりの意見を持ってもらいたいと思います。
こういう議題で友達や家族とディスカッションしてみるのも面白そうですね。
今回の内容で少しでも面白い・タメになると感じてくれたら嬉しいです。
そして、
面白い・タメになると思った方は、いいね!とシェアによるこのブログの拡散をお願いします。
タメになるコンテンツ作成の大きな大きなモチベーションとなります。
それでは最後まで見ていただきありがとうございました。
それでは、またいつかお会いしましょう。
けいタン
※過去の投稿一覧(ブログ)
・合わせて読みたい前回の関連記事:プライバシー権~個人情報と自己コントロール~037(憲法③) – (keitan-zatsugaku.com)
↑ネット社会での「プライバシー」の立ち位置とは?
法律的観点からしっかりと解説しています!