こんにちは、けいタンです。
今回は日本史のことについて話していきます。
今回のテーマについて
今回取り上げるテーマは、少しおおざっぱに幅広く古墳時代から平安時代の周縁関係について
「ヤマト政権を悩ませた東北の民”蝦夷”の存在」という内容について見ていくことにしましょう。
ヤマト政権が始まった古墳時代から、東北地方に住んでいた蝦夷は非常に厄介な存在だったのです。
皆さんも「蝦夷」について、小学校や中学校で学習したかと思いますが、
もう一度、この機会に昔の日本が蝦夷とどんな関係にあったのか見ていくことにしましょう!
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今回のテーマに対する結論
まずは、今回のテーマの結論から見て学びを深めていくことにしましょう。
ヤマト政権と蝦夷の関係性について、
ヤマト政権の東北統一は古来より始まり、坂上田村麻呂によってようやく果たされた、
ということです。
では、このことについて次の項目から詳しく見ていくことにしましょう。
ヤマト政権の東北侵攻の始まり
蝦夷とヤマト政権
冒頭でも言ったように、「蝦夷」については多くの方が小学校や中学校の歴史の授業で習ったかと思われます。
ですが、何が何だか忘れっちゃった方もいるかと思うので、
ここで「蝦夷」について少しばかり説明します。
蝦夷とは、当時のヤマト政権に服属しない北関東以北に住んでいた人々のことを指します。
そして、蝦夷の地に初めて兵が送り込まれたのは。
日本書紀によると西暦110年のことであったそうです。
まあ、この情報が本当なのか…?ということも気になりますが、
あの日本武尊(ヤマトタケルノミコト)が東征へと向かう様子が、日本書紀には描かれているのです。
また、宋書倭国伝という書物には、倭王である武(雄略天皇であるとされているがこちらも真偽は定かではない)が、
蝦夷を征し終えたと表明したとの記述があります。
着実に蝦夷征討が進んでいく飛鳥時代
そして飛鳥時代に入ると、斉明天皇が阿倍比羅夫(あべのひらふ)という人物を派遣し、
ヤマト政権の東北支配の拠点となる城柵や城を築城しました。
まあ、戦いの準備が刻々と行わてれ行ったということですよね。
さらには、日本海側の蝦夷を征討し、ヤマト政権の当たらな行政区分である出羽国を設置したのです。
このように、飛鳥時代になると少しずつヤマト政権の蝦夷征討が進んでいったのです。
坂上田村麻呂の大進撃
阿弖流為vs坂上田村麻呂
では、先ほどの飛鳥時代の蝦夷とヤマト政権の話の続きをしていきましょう。
その後、日本海側の蝦夷は征討したので、太平洋側の蝦夷への侵攻が繰り返されました。
かなり年月が経過しますが、789年には夷東将軍である紀古佐美(きのこさみ)率いる官軍が、
蝦夷の族長である阿弖流為(アテルイ)によって潰走(かっそう:戦いに惨敗して、逃げること)させられると、
801年、征夷大将軍である坂上田村麻呂は約4万もの大軍を率いて出兵しました。
それに対し、阿弖流為も引き下がらなかったので、田村麻呂は蝦夷に対して同化政策を推し進めて柔軟に対応したのです。
坂上田村麻呂の人情と歴史の残酷さ
ちなみに同化政策とは、力を持つ民族が、弱い民族(もしくは集団)に対して自らの文化伝統を受け入れるよう強いる政策
のことをいいます。
これについては、中世のヨーロッパによる植民地政策や敗戦後のGHQによる統制などと非常に似ていますね。
このような同化政策を田村麻呂は行ったことで、阿弖流為はようやく降伏したのです。
私は、個人的に坂上田村麻呂のことが好きなのですが、そこには田村麻呂の人情にあります。
というのも、降伏した阿弖流為のために助命嘆願をしたのです。
こいつの命を奪わないでくれと。
しかし、歴史を勉強するとその中身はかなり残酷です。
最終的には、田村麻呂の助命嘆願も虚しく、阿弖流為は河内において処刑されました。
ちなみに、難航したヤマト政権の東北征討でしたが、平安京の遷都に伴い中止となりました。
まとめ~坂上田村麻呂は武士としても人としても優れていた!
いかがだったでしょうか。
それでは今回のまとめを行っていきます。
確認しておくべき蝦夷とヤマト政権に関する4つのこと
- 蝦夷とは、当時のヤマト政権に服属しない北関東以北に住んでいた人々のことを指す
- 飛鳥時代には、斉明天皇が阿倍比羅夫を派遣しヤマト政権の東北支配の拠点となる城柵や城を築城した
→さらに、日本海側の蝦夷を征討し、ヤマト政権の当たらな行政区分である出羽国を設置した - 801年、征夷大将軍である坂上田村麻呂は約4万もの大軍を率いて出兵した
→蝦夷に対して同化政策(力を持つ民族が、弱い民族に対して自らの文化伝統を受け入れるよう強いる政策)を推し進めて柔軟に対応することで、阿弖流為は降伏した - 難航したヤマト政権の東北征討は、平安京の遷都に伴い中止となった
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それでは今日はここまでとします。最後まで見ていただきありがとうございました。
では、またお会いしましょう。けいタン
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