近代日本の歴史 第12講~米国の日系移民排斥と反米感情(part1)~198(集中講義⑫)

近代日本

こんにちは、けいタンです。

近代日本の歴史について説明します。

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今回取り上げるテーマは?

少し前から大学の集中講義のように連続して「近代日本の歴史」について解説しています。

参考した本は油井大三郎さんの「避けられた戦争」です。

第1講は話のプロローグとして、1920~1940年代の全体像を俯瞰的に眺めてみました。

第2,3講義は、ヴェルサイユ会議と日本について、第4講はヴェルサイユ条約の内容がいかに日本社会に影響を与えたのかについて、第5講は日米両軍による戦争計画について、

第6講は米国における共和党政権の誕生とワシントン会議の提起について、第7講はワシントン会議での対立と合意について、第8講は米国がなぜ「門戸開放」にこだわったのかについて、

第9講はワシントン会議に対する日本社会の対応について、第10講は日本における軍部権限抑制論の台頭について、第11講はワシントン条約に対する日本軍部の反応について触れていきました。

そして今回第12講では、米国の日系移民排斥と反米感情の噴出ということで1924年の移民法の成立(part1)に関して考えていきましょう!

あなたに考えてもらいたいコト

この集中講義の最大の目的は「20世紀前半の世界の戦争について振り返るとともに、どうすれば戦争(対立・コントラスト)を避けることができるのか?」

…すなわち、戦争を避ける道はなかったのか(戦争以外の別の選択肢を取ることができなかったのか)?ということについて考えていきます。

今の現代社会でも、ウの国とロの国が対立しています。

そして同時に、近代日本の歴史を学習する最大の理由は、過去の出来事から新たな知見を手に入れ、現代社会で応用することだと考えます。

あなたも近代日本、近代世界の功罪についてや戦争を避けるために必要なことを私と一緒に考えていこう!

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国の防衛について記載された帝国国防方針

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米国の日系移民排斥と反米感情の噴出…1924年移民法の成立(part1)

サンフランシスコにおける中国人労働者虐待の風刺画

米国における日系移民

近代では、日本人の海外移住の始まりが起こっていました。例えば、今の日本人も大好きなハワイは、そもそもは1898年に米国に併合されたところで、米国西海岸に移る日系人の増加が起こっていました。

そうなると、西海岸の農業(野菜・果物など)の収穫期に大量の労働力がいるため、集約農業への転換が行われ、1882年の中国系移排斥法で中国系移民の新たな流入を禁止し、日系人は西海岸に流入する結果となりました。

日系移民は貯蓄や農地の購入をしていたため、白人農民のライバル的存在となったのです。それが日系移民の排斥につながったと考えるのが1番合理的でしょう。

また、日本人が白人農民のライバル的存在になりうる時期には日露戦争が起こっていたのですが、これは言い換えると、日系移民は日本が勝利した時期に重なっていますよね。

そのため、米国マスメディアは「日本脅威論」…つまり日本は日系移民を使って西海岸の領有を働いているのだ、という内容が登場したくらいに当時の日本は今と違って力を持っていたのです。どうしてこんな風になっていったんでしょうね?(笑)

米国のマスメディアの影響もあってか、日露戦争後には日系移民排斥論の活発化が起こり、「サンフランシスコ・クロニクル」という日系人排斥キャンペーン(1905)があったくらいになったのです。

ヨーロッパにおける黄禍論の台頭

歴史を眺めてみると、ヨーロッパ人は人種の違いを意識している人間といえるでしょう。例えば、大航海時代である16~17世紀では、奴隷貿易と中南米の植民地化を実施していましたね。その背景には、アジアの富への渇望や憧憬・「脅威」感があったのではないでしょうかね。

また、西欧は産業革命によって多くのアジア諸国を西欧大国の植民地にしてきました。すなわち、言葉は悪いですが、アジア人蔑視が当時の欧州には根付いていたのです。それは歴史を振り返るとだれでも分かることです。

ヴィルヘルム二世によるスケッチをもとに描かれた「黄禍」の絵

ここで、私をふくめ疑問に思った方がいるかもしれない。それは、「なぜ、ヨーロッパ人のアジア観は『憧憬・脅威・蔑視』などといった多くの異なる要素がないまぜになっているのか」ということです。

その答えとしては、19世紀末、帝国主義時代のアジア人への脅威を強調した「黄禍論」について考える必要があります。というのも、日清戦争は、日本の勝利のインパクトが世界に知れ渡った史実なのは言うまでもありませんね。

このような出来事に対して、ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世はロシア皇帝ニコライ2世への手紙を送っていたとされています。とにかくロシアの関心をアジアへ向けさせることで、独露対立の緩和を目指したのです。(ヨーロッパのパワー・ポリティクス)

また上の絵を見て下さい!あなたならこの絵にどんなタイトルをつけますか?どんな内容を言いたかったと思いますか?

おそらく「ヨーロッパの諸国民よ、汝らの神聖な財産を守れ!」というような内容を伝えたかったのでしょう。…つまり、今まで植民地であったアジアの台頭についてヨーロッパは危機感を抱いていたのです。

米国流の黄禍論

そもそも米国流の黄禍論は、アジア系移民への排斥感情から始まりました。カルフォルニアでは、1846年に金鉱が発見されましたが、これは中国からの労働者によるものでした。

また、大陸横断鉄道…つまり、東はアイルランド系移民、西は中国系の労働者が米国に流れ込んでいたのです。中国(清)はそもそも海禁政策、海外移住の禁止でしたが、非合法に移出し奴隷的な労働をしていた人がたくさんいたのです。例えば、「苦力(クーリー)」と呼ばれる人たちは、黒人奴隷と同等に排斥される人たちでした。

このような海外からの移民や労働者によって、カリフォルニアの金鉱は産出量の減少し大陸横断鉄道は1869年に完成しました。そうなると中国系労働者は解属され、サンフランシスコなどに集住して、これが「チャイナ・タウン」と呼ばれたのです。

そこでは、白人労働者との競争が常に起こっており、白人労働者からは激しい排斥運動を受けていました。さらには、米国流の黄禍論の動きとして、1882年に中国系労働者の流入を禁止する法律ができたのです。

まとめ~中国系の移民問題は過去も現在も変わらない!

今回の内容はいかがだったでしょうか。

少しでも米国の日系移民排斥と反米感情の噴出ということで、1924年の移民法の成立(part1)に関して知ることができれば大丈夫です!(まずは知ることから何事も始まる)

次回は、続きとして移民法(part2)について解説していきますので、お楽しみに!!

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それでは今日はここまでとします。最後まで見ていただきありがとうございました。

また別の投稿でお会いしましょう。けいタン
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参考文献:「避けられた戦争(油井大三郎)」

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