こんにちは、けいタンです。
近代日本の歴史について説明します。
今回取り上げるテーマは?
少し前から大学の集中講義のように連続して「近代日本の歴史」について解説しています。
参考した本は油井大三郎さんの「避けられた戦争」です。
第1講は話のプロローグとして、1920~1940年代の全体像を俯瞰的に眺めてみました。
第2,3講義は、ヴェルサイユ会議と日本について、第4講はヴェルサイユ条約の内容がいかに日本社会に影響を与えたのかについて、第5講は日米両軍による戦争計画について、
第6講は米国における共和党政権の誕生とワシントン会議の提起について、第7講はワシントン会議での対立と合意について触れていきました。
そして今回第8講では、米国がなぜ「門戸開放」にこだわったのかに関して考えていきましょう!
あなたに考えてもらいたいコト
この集中講義の最大の目的は「20世紀前半の世界の戦争について振り返るとともに、どうすれば戦争(対立・コントラスト)を避けることができるのか?」
…すなわち、戦争を避ける道はなかったのか(戦争以外の別の選択肢を取ることができなかったのか)?ということについて考えていきます。
今の現代社会でも、ウの国とロの国が対立しています。
そして同時に、近代日本の歴史を学習する最大の理由は、過去の出来事から新たな知見を手に入れ、現代社会で応用することだと考えます。
あなたも近代日本、近代世界の功罪についてや戦争を避けるために必要なことを私と一緒に考えていこう!
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米国はなぜ「門戸開放」にこだわったのか
門戸開放政策の英国起源
今回は米国と門戸開放について解説していくのですが、そもそも「門戸開放」の起源は英国だったそうです。それは、1898年にバルフォア外相代理がマンチェスターで演説で、当時のイギリスの利害には通商上のものがあり、領土上のものではありませんでした。
また英国の政策として、清帝国の領土分割には反対だったのです。英国としては諸国民に対して通商上の機会を擁護したかったのでしょう。
そして、1898年にチェンバレン植民地相(植民地に関する大臣がいたとは…なんか怖いですね)の提案が英国政府の提案となり、米国に対して門戸開放を阻害する行為(租借、領土獲得)に共同で抗議する考えに至りました。
米西戦争と「反帝国主義論争」
米国では、共和党のマッキンレー大統領が1898年の米西戦争に勝利したことで、フィリピン・グアムを獲得、さらにはハワイ併合をすることができました。
そして「太平洋国家」になった米国は、中国市場への進出が容易になったことで、門戸開放政策を考え出したのです。しかし、米国国内は植民地領有に反対する「反帝国主義論争」が生まれていました。
そこには、英国の植民地支配に抗して独立したという反植民地主義的な気風や「市民の平等=共和主義」に反するものがあったのです。(本国民と植民地住民にはかなりの権利上の格差があった)また、安い労働力が本国に流入すると本国労働者の地位が低下するのでは、という論点での反対もあったのです。
民主党は当然ながら、海外植民地の領有に反対し、これが1900年大統領選挙の中心的な争点になったのです。マッキンレー大統領に関しては、スペインとの講和交渉団との会合で、フィリピンを領有することは「門戸開放を維持するための商業的な機会を提供するもの」であり、「門戸開放政策」こそが米国外交の基軸と言及していたのです。
二種類の門戸開放政策
門戸開放政策には大きく考えて以下の2種類のものがありました。(米国ジョン・ヘイ国務長官)
「①中国市場における商業上の門戸開放、通牒(1899年)は英独露の駐米大使で、中国における各国の勢力圏が前提とするもの」
「②第二次通牒(1900年)中国の商業上の機会均等、領土的行政的保全の尊重し、中国における列強の勢力圏分割は原理的に否定するもの」
※通牒とは、簡単に言えば、書面で通知すること。中国に対して門戸開放すると通知することをいいます。
なんか難しい内容のことをいっているように感じますが、後からおいおい解説していきますので、何となくの流れをつかめればOKです!
門戸開放政策と満州
米国の関心は中国のみならず、満州にも集中する傾向がありました。そもそも満州は日本が日露戦争以来ずっと鉄道などの権益を得ていたところであり、満州の門戸開放が結局のところ、満州権益をめぐる日米対立につながっていきました。
米国の鉄道王ともいわれていたハリマンと桂太郎首相は1905年に、南満州鉄道の共同管理案に合意しましたが、小村寿太郎の猛反対によりこの案は頓挫されました。
また、中国進出の米系企業関係者はエリュー・ルート国務長官に対して、「日本は満州の門戸を閉鎖している」との趣旨を伝えているそうです。
ドル外交と中国
タフト政権では、ノックス国務長官が満州鉄道中立化計画を1909年に提案し、清も東清鉄道・満鉄の買収に動いていました。
これに対して、日露両国は当然のこと拒否します。なぜ露も拒否するのかというと、実は1910年に第二次日露協商というものを結び、満州の現状維持を確認していたからなのです。
また、英独仏と国際借款団による「ドル外交」は中国の鉄道建設促進させ、満州は日露の勢力圏分割外交・進出阻止となりました。1913年の六国借款団構想では、米国資本が主となり、外の列強の消極的態度によって挫折してしまいました。
よくよく考えてみると、当時の米国の対中政策にはディレンマ(板ばさみ状態)があったように思うほかありません。
というのも、門戸開放(新外交)は理想であり、他の列強の抵抗や米系企業の消極性から、理想を実現できない一方で、旧外交的な面が強い満州(門戸開放政策の実施が拒否される)にそのような拠点をつくるのはどう考えてもおかしいですよね。
このような歴史の矛盾に気づくことも歴史を学ぶ上で大切なことの1つといえます!
米国による「勢力圏分割」外交
復習になりますが、米西戦争に勝利したことで、米国はフィリピン・グアム・プエルトリコを獲得することができましたが、これはどう考えても「旧外交」的な行動ですよね。
しかし、米国は「新外交」を提唱している…結局のところ米国は「旧外交の継続」をしたいんでしょうか?それとも「新外交」への転換を目指しているのでしょうか?ここでは、米国による「勢力圏分割」外交について少しだけ見ていきます。
まず、権力政治・軍事同盟をめざす行動様式に関しては継続であり、1905年の桂・タフト覚書(秘密協定)では、勢力圏分割協定を結び、日本の朝鮮における優位や米国のフィリピンにおける優位を相互承認しました。
また、1908年の高平・ルート協定では、太平洋の現状維持、中国における商工業上の機会均等を、1917年の石井・ランシング協定では、中国における日本の「特殊権益」を米国が承認する代わりに、中国の門戸開放を日本が承認するもので、ワシントン会議後に破棄されました。
考えると、米国は「新外交」の概念が登場して以降、勢力圏割的な協定・秘密協定を忌避していたといえますね。
まとめ~植民地の旧外交と門戸開放の新外交に迷う米国!
今回の内容はいかがだったでしょうか。
少しでも米国が門戸開放にこだわるわけに関して知ることができれば大丈夫です!(まずは知ることから何事も始まる)
次回は、ワシントン会議に対する日本社会の対応について解説していきますので、お楽しみに!!
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それでは今日はここまでとします。最後まで見ていただきありがとうございました。
また別の投稿でお会いしましょう。けいタン
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