近代日本の歴史 第25講~田中義一内閣の成立~211(集中講義㉕)

近代日本

こんにちは、けいタンです。

近代日本の歴史について説明します。

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今回取り上げるテーマは?

少し前から大学の集中講義のように連続して「近代日本の歴史」について解説しています。

参考した本は油井大三郎さんの「避けられた戦争」です。

第1講は話のプロローグとして、1920~1940年代の全体像を俯瞰的に眺めてみました。

第2,3講義は、ヴェルサイユ会議と日本について、第4講はヴェルサイユ条約の内容がいかに日本社会に影響を与えたのかについて、第5講は日米両軍による戦争計画について、

第6講は米国における共和党政権の誕生とワシントン会議の提起について、第7講はワシントン会議での対立と合意について、第8講は米国がなぜ「門戸開放」にこだわったのかについて、

第9講はワシントン会議に対する日本社会の対応について、第10講は日本における軍部権限抑制論の台頭について、第11講はワシントン条約に対する日本軍部の反応について、

第12,13講は米国の日系移民排斥と反米感情の噴出で1924年の移民法の成立について、第14,15講は1924年の米国移民法に対する日本社会の反発について、

第16講は国際協調派の苦悩について、第17,18講は中国の政権分立と国権回復運動の始まりについて、第19,20講は英米の帝国縮小戦略への転換について、第21,22講は第一次幣原外交と中国の国権回復運動について、第23,24講は中国の国権回復と日本社会の反応について触れていきました。

そして今回第25講では、田中義一内閣の成立に関して考えていきましょう!

あなたに考えてもらいたいコト

この集中講義の最大の目的は「20世紀前半の世界の戦争について振り返るとともに、どうすれば戦争(対立・コントラスト)を避けることができるのか?」

…すなわち、戦争を避ける道はなかったのか(戦争以外の別の選択肢を取ることができなかったのか)?ということについて考えていきます。

今の現代社会でも、ウの国とロの国が対立しています。

そして同時に、近代日本の歴史を学習する最大の理由は、過去の出来事から新たな知見を手に入れ、現代社会で応用することだと考えます。

あなたも近代日本、近代世界の功罪についてや戦争を避けるために必要なことを私と一緒に考えていこう!

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田中義一内閣の成立

陸軍出身の田中義一

陸軍エリート田中義一の対中政策

第一次世界大戦の体験で分かったことは、戦争回避の方法の模索という「新外交」 の始まりではなく、
総力戦体制構築の必要性でした。すなわち、科学の戦争が起こり、兵器の研究が始まり、決して世界の国際競争が無くなったわけではないということです。

では、田中義一について見ていきましょう。田中は1914年の寺内正毅陸相あての手紙で、袁世凱の黒幕中に米国の在ることは疑いないものだと記述しており、中国への武力出兵も辞さない覚悟を持っていました。

また、大隈重信首相あての「対支政策意見書」では、「人生の事は一の腕力によって決定せざれ得るが如き簡略のものに非ず」と述べており、西欧列強の中国への介入に関しては、「日支相親善して互いに其利を進め、害(西洋列強)を除くに非ざれば不可なり」と西洋列強に対しても強い態勢を取っているといえますね。

さらには、1917年5月の「対支経営私見」では、辛亥革命を通して国民は覚醒し、行政は頹廃してしまい、中国の財政経済の救済ができるのは日本帝国のみで、日本の保護者的役割を強調しました。

在郷軍人会の創設

1910年に創設された在郷軍人会では、退役軍人の糾合(ある目標のもとに、人々を呼び集めること)が行われ、そこで田中は「在興軍人会の父」として活躍していました。

大正デモクラシー期では、軍縮ムードが漂っていたため、在郷軍人会の理念は「良兵良民」でした。すなわち、軍隊は天皇の下に結集する「家族」であり、国民統合の推進を考えていました。

また、労働運動・農民運動の高揚によって、「やんやと節」などのような社会主義を排斥するキャンペーンが起こりました。

というのも、圧倒的多数の兵隊は農村出身であり、都市の文化を軽佻浮薄(軽はずみでうわついている・こと)する風潮があったのです。さらに、大正デモクラシー時には物質主義を排撃し、伝統精神の重要性を強調していたといえます。

ちなみに北一輝や上杉慎吉は、在郷軍人会は男子普通選挙時代の到来に対応した大衆政治の左傾化を防ぐ、愛国団体の中核であり、生みの親田中義一は立憲政友会から総裁候補として注目される、と考えていました。

政治家としての田中義一

原敬内閣の陸相は、陸軍については四個師団増設、海軍については八八艦隊創設を構想していましたが、田中は海軍整備の優位性を考え、1919年に予算を閣議決定しました。

ちなみに、立憲政友会は野党であり、加藤高明(憲政会)内閣の時に、護憲三派内閣(1924)ができました。そして、皆さんが1度は歴史の授業で習ったことであろう「男子普通選挙法、治安維持法」はこの加藤高明内閣の時(1925年3月)に制定されました。

そもそも田中義一は、立憲政友会総裁で300万の在郷軍人会の票を持っていました。よって、陸軍と政友会の接近が起こり、政友会は対中強攻策の推進主体(強硬派)になっていったのです。

政友会の若槻内閣批判と幣原外交批判

第一次若槻礼次郎内閣の成立は1926年のことで、立憲政友会は野党として若槻内閣の失政探しをしていました。例えば、松島遊郭移転にともなう贈収賄事件や朴烈事件、北伐による在留邦人の危険といった対中国政策などです。

北伐軍が南京入城、外国公使館・居留民に暴行、略奪行為を行ったのは1927年3月でした。このような状況に対して、幣原喜重郎外相は英国からの共同干渉提案を拒否し、武力介入の見送りをしましたね。

これに対して、政友会内は幣原外交を軟弱批判の強硬論を主導しました。さらに関東大震災による金融恐慌での鈴木商店の倒産、および枢密院が台湾銀行の救済策を否決したことによって、若槻内閣は総辞職し、その後田中義一内閣が成立し、政友会単独内閣として力を持ちました。

まとめ~政友会は陸軍と接近していたため田中内閣は強硬派である!

今回の内容はいかがだったでしょうか。

少しでも田中義一内閣の成立に関して知ることができれば大丈夫です!(まずは知ることから何事も始まる)

次回は、田中外交と対中国政策について解説していきますので、お楽しみに!!

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それでは今日はここまでとします。最後まで見ていただきありがとうございました。

また別の投稿でお会いしましょう。けいタン
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参考文献:「避けられた戦争(油井大三郎)」

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↑対中国不干渉の幣原喜重郎の協調外交は陸軍にとっては嬉しくなかった。その結果、陸軍が勝手な行動に出る二重外交が誕生してしまった…

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