近代日本の歴史 第27講~済南事件と中国の排日運動激化(part1)~213(集中講義㉗)

近代日本

こんにちは、けいタンです。

近代日本の歴史について説明します。

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今回取り上げるテーマは?

少し前から大学の集中講義のように連続して「近代日本の歴史」について解説しています。

参考した本は油井大三郎さんの「避けられた戦争」です。

第1講は話のプロローグとして、1920~1940年代の全体像を俯瞰的に眺めてみました。

第2,3講義は、ヴェルサイユ会議と日本について、第4講はヴェルサイユ条約の内容がいかに日本社会に影響を与えたのかについて、第5講は日米両軍による戦争計画について、

第6講は米国における共和党政権の誕生とワシントン会議の提起について、第7講はワシントン会議での対立と合意について、第8講は米国がなぜ「門戸開放」にこだわったのかについて、

第9講はワシントン会議に対する日本社会の対応について、第10講は日本における軍部権限抑制論の台頭について、第11講はワシントン条約に対する日本軍部の反応について、

第12,13講は米国の日系移民排斥と反米感情の噴出で1924年の移民法の成立について、第14,15講は1924年の米国移民法に対する日本社会の反発について、

第16講は国際協調派の苦悩について、第17,18講は中国の政権分立と国権回復運動の始まりについて、第19,20講は英米の帝国縮小戦略への転換について、第21,22講は第一次幣原外交と中国の国権回復運動について、

第23,24講は中国の国権回復と日本社会の反応について、第25講は田中義一内閣の成立について、第26講は田中外交と対中国政策について触れていきました。

そして今回第27講では、済南事件と中国の排日運動激化に関して考えていきましょう!

あなたに考えてもらいたいコト

この集中講義の最大の目的は「20世紀前半の世界の戦争について振り返るとともに、どうすれば戦争(対立・コントラスト)を避けることができるのか?」

…すなわち、戦争を避ける道はなかったのか(戦争以外の別の選択肢を取ることができなかったのか)?ということについて考えていきます。

今の現代社会でも、ウの国とロの国が対立しています。

そして同時に、近代日本の歴史を学習する最大の理由は、過去の出来事から新たな知見を手に入れ、現代社会で応用することだと考えます。

あなたも近代日本、近代世界の功罪についてや戦争を避けるために必要なことを私と一緒に考えていこう!

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東方会議の様子(田中義一はどこにいるでしょう?)

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済南事件と中国の排日運動激化(part1)

1928年5月に済南で日中両軍が衝突する

第二・三次山東出兵と済南事件

蒋介石は国民革命軍の司令官として、1928年4月に北伐を再開しました。田中内閣は熊本第6師団5000名の済南派遣を居留民保護を目的として決定(第二次山東出兵)しました。

しかし、北京南京両政府としては居留民保護は中国側がするべきものであって、日本は出兵不必要であると主張しました。

現に、済南には日本人が1700人あまり、朝鮮人が81名いたとされています。

済南事件(1928/5/3~5/5停戦)は、国民革命軍の一部による印刷物をめぐる対立が武力衝突に発展したのが発端でした。

服部龍二という国際政治学者はこのように考えています。

日本軍は進駐目的の変更を、当初進駐した支那派遣軍は居留民の避難誘導を主任として務め、熊本から増兵された部隊は居留民の現住所での保護を第一として、避難を二次的なものとみなしており、国民革命軍を日本人居住地域から排除することは、武力衝突発生の可能性があると考察しました。

結局のところ、鈴木荘六参謀総長は「支那との停戦は国軍の威信を顕揚し禍因を根絶する」という条件の下で行われるべきとして、第三次山東出兵は決定されました。

このような山東派兵の目的は、居留民保護からの武力衝突によって、中国への「膺懲(こらしめること)」および日本軍の「威信顕揚」のためだったと考えることができます。

そのような山東出兵による済南事件によって、日中両軍の衝突は拡大していきました。

済南事件の影響

日中関係や英米との関係は大きな転換を迎えました。

蒋介石は、済南(日本軍占領)を迂回して北伐の継続を進めたため、中国国内では蒋介石は「国恥」であると非難され、国民党幹部の対日観には決定的な悪化となりました。

国民党政府外交部長に関しても知日派の人物から王正廷と呼ばれる知米英派に代わりました。

また、米英は対日不信を強める効果になりました。マクマリー覚書では、国務省は日本軍が故意に済南事件を起こしたと考え、英国も対日協調に見切りをつけ、国民党政権へ接近する方針に変化しました。

このように済南事件によって居留民保護は除くとしても、国民党政府の中国統一への妨害や軍閥擁護政策の現れが露呈され、米英との協調外交を困難にさせる効果を招きました。

済南事件の事後処理

松井石根中将は国民政府軍との交渉のため1928年5月に青島、済南に派遣されました。

日本側の要求は、蒋介石の謝罪と日本軍攻撃の部隊の幹部への処罰であり、それに対して国民党政府側代表の張群という人物は陳謝を拒否しました。

軍の間の交渉も決裂してしまい、外交レベルの交渉は難航でした。

日本側全権芳沢謙中国公使は「①陳謝は日本側も行う」「②処罰についてはすでに行われたもの以上求めない」「③賠償は日中相殺ということにする」「④将来の保障として在留邦人の生命財産の保護、排日宣伝の取り締まりを行う」ことを条件に日本軍を2カ月以内に山東から撤退するよう考え、仮調印しましたが、田中外相としては将来に賠償要求が蒸し返される心配し、再交渉となりました。

森次官や陸軍荒木貞夫は強硬論を唱え、芳沢は森などを通さずに田中外相に直接連絡するルートで、相互に陳謝・賠償を放棄することを条件に合意しました。

事後処理の協定は3月に正式調印され、日本軍は5月には山東から撤退しました。

日貨ボイコット運動の激化

済南事件によって日貨ボイコット運動が全中国に波及し、反日運動組織「救国基金」が組織され、奢侈品・雑貨の70%、陶磁器・海産物・絹製品の30%、綿製品の5〜20%を納入するよう要求されたといいます。(そしてこれは事実上、保護関税設定の効果があったと考えられますね)

日本商工会議所の推計では、ボイコット運動による対中輸出の損失は、1928年5月〜12月の間だけでも1億2000万円(総輸出額の2割)ほどあったとされています。

また、中国有力企業「金会」の機関誌では、満蒙の特殊権益の擁護に関心が集中しており、中国本土全体への配慮を欠く田中政権への不満がありました。

まとめ~済南事件や山東出兵によって日本は評価はだだ下がりに!

今回の内容はいかがだったでしょうか。

少しでも済南事件と中国の排日運動激化に関して知ることができれば大丈夫です!(まずは知ることから何事も始まる)

次回は、今回の続き(part2)について解説していきますので、お楽しみに!!

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それでは今日はここまでとします。最後まで見ていただきありがとうございました。

また別の投稿でお会いしましょう。けいタン
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参考文献:「避けられた戦争(油井大三郎)」

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