近代日本の歴史 第5講~戦争計画の実相~191(集中講義⑤)

近代日本

こんにちは、けいタンです。

近代日本の歴史について説明します。

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今回取り上げるテーマは?

少し前から大学の集中講義のように数十回にわたって「近代日本の歴史」について解説しています。

参考した本は油井大三郎さんの「避けられた戦争」です。

第1講は話のプロローグとして、1920~1940年代の全体像を俯瞰的に眺めてみました。

第2,3講義は、ヴェルサイユ会議と日本について、第4講はヴェルサイユ条約の内容がいかに日本社会に影響を与えたのかについて見ていきました。

今回第5講は、日米両軍による戦争計画について考えてみましょう!

あなたに考えてもらいたいコト

この集中講義の最大の目的は「20世紀前半の世界の戦争について振り返るとともに、どうすれば戦争(対立・コントラスト)を避けることができるのか?」

…すなわち、戦争を避ける道はなかったのか(戦争以外の別の選択肢を取ることができなかったのか)?ということについて考えていきます。

今の現代社会でも、ウの国とロの国が対立しています。

そして同時に、近代日本の歴史を学習する最大の理由は、過去の出来事から新たな知見を手に入れ、現代社会で応用することだと考えます。

あなたも近代日本、近代世界の功罪についてや戦争を避けるために必要なことを私と一緒に考えていこう!

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これは現在のジュネーブにある国際連合

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日米両軍による戦争計画の実相

どんな戦争計画・軍事計画を立てていたのだろう?

米軍の対日戦争計画「オレンジ・プラン」

米軍の対日戦争計画に「オレンジ・プラン」というものがあります。

これは、日露戦争後に立案が開始され、対日戦を想定した米国軍人の机上のプランでしたが、当時の政治家(大統領・陸海軍長官)の関心は呼ばなかったようです。

ちなみにオレンジ・プランの原形は1919年に作成され、1924年には陸海軍長官の署名をもらうことで、正式な計画として承認・改訂されました。

そして、最終的には「レインボー・プラン」と改称し(1940)し、これは実際の対日戦の作戦に応用されたそうです。

帝国国防方針について

では次に、日本政府の方針について見ていくことにしましょう。

そもそも陸海軍の統帥部が原案を明治天皇に提案し、天皇の裁可によって原案が通るのか通らないのか決まっていました。すなわち、政府が全く関与できなかったのです。

これは、当時の明治憲法体制下では、軍隊は天皇に直属するものであり、軍隊に対する文民統制の欠如があったからでしょう。

また、歴史を学んだ方には分かると思いますが、当時の陸軍と海軍の仲は良くなかったのです。すなわち、陸軍と海軍の間に対抗意識があったのです。同じ日本を愛する人たちなのに…。

たとえば、陸軍は北進論(ロシアが第一の仮想敵国であると考える)であるのに対して、海軍は南進論(ロシアではなく英米仏との対立が予想されると考える)を取っていました。

政府は、1907年に「対外政策方針」を発表しました。これは、米中への商業的発展重視だったり、1902年に結んだ日英同盟を基軸としてドイツを敵性国家と考える内容がありました。

あと米国については、対立する可能性を認めつつも、政治・商業上から親交を深める必要性があると考えていました。

歴史の教科書を見てみると、この時期は「二重外交」と呼ばれる時代でした。政府の戦略と軍部の戦略が統一されていない時期だったのです。

国防方針の改定について

陸海軍は総力戦を戦うために、中国の資源を含めた「日支自給自足体制」の構築の必要を訴えていました。国防の地域対象を日本のみならず、満州・蒙古・東南アジア、それに中国まで含めていました。

そうなってくると必要になるのが、大規模な軍拡になってきます。これについては、海軍の軍拡を優先し、陸軍は1927年以降に拡張されました。

先ほどにもお話ししましたが、当時の政府と軍部の国防方針は統一されていないうえに、文民統制が制度的に保障されていない時代だったのです。

これはよくよく考えると恐ろしい話ですよね。政府の方針とは異なる国防方針が独り歩きする恐れがあったのです。実際に陸軍や海軍が暴走して起こった事件はたくさんありますしね…。私たちは歴史から学ばないといけません!

関東都督府の改組

日本は日露戦争に勝利したことで旅順・大連を含む関東州(日本の関東ではないのでご注意を)を租借地とすることができました。

そして、1906年に関東都督府というものを設置しました。これを設置した理由は、関東州の管轄・在満兵力の統制・南満州鉄道の保護などが考えられますね。

ちなみに、都督とは陸軍大将ないし中将のことを指し、外務大臣が都督府の管轄(=内閣の統制)を行っていました。

また、関東都督府の改組が1918年に起こり、これは外務省の改組案であり、これによって関東庁(関東州の行政)のトップは文官に、軍事組織である関東軍は陸軍参謀本部に直結しており、内国の統制から独立しました。

まとめ~軍部と政府が統一されていない二重外交が展開!

今回の内容はいかがだったでしょうか。

少しでも日米両軍の戦争計画や日本の二重外交について、知ることができれば大丈夫です!(まずは知ることから何事も始まる)

次回は、ワシントン会議ついて解説していきますので、お楽しみに!!

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それでは今日はここまでとします。最後まで見ていただきありがとうございました。

また別の投稿でお会いしましょう。けいタン
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参考文献:「避けられた戦争(油井大三郎)」

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