近代日本の歴史 第17講~中国の国権回復運動の始まり(part1)~203(集中講義⑰)

近代日本

こんにちは、けいタンです。

近代日本の歴史について説明します。

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今回取り上げるテーマは?

少し前から大学の集中講義のように連続して「近代日本の歴史」について解説しています。

参考した本は油井大三郎さんの「避けられた戦争」です。

第1講は話のプロローグとして、1920~1940年代の全体像を俯瞰的に眺めてみました。

第2,3講義は、ヴェルサイユ会議と日本について、第4講はヴェルサイユ条約の内容がいかに日本社会に影響を与えたのかについて、第5講は日米両軍による戦争計画について、

第6講は米国における共和党政権の誕生とワシントン会議の提起について、第7講はワシントン会議での対立と合意について、第8講は米国がなぜ「門戸開放」にこだわったのかについて、

第9講はワシントン会議に対する日本社会の対応について、第10講は日本における軍部権限抑制論の台頭について、第11講はワシントン条約に対する日本軍部の反応について、

第12,13講は米国の日系移民排斥と反米感情の噴出で1924年の移民法の成立について、第14,15講は1924年の米国移民法に対する日本社会の反発について、第16講は国際協調派の苦悩について触れていきました。

そして今回第17講では、中国の政権分立と国権回復運動の始まり(part1)に関して考えていきましょう!

あなたに考えてもらいたいコト

この集中講義の最大の目的は「20世紀前半の世界の戦争について振り返るとともに、どうすれば戦争(対立・コントラスト)を避けることができるのか?」

…すなわち、戦争を避ける道はなかったのか(戦争以外の別の選択肢を取ることができなかったのか)?ということについて考えていきます。

今の現代社会でも、ウの国とロの国が対立しています。

そして同時に、近代日本の歴史を学習する最大の理由は、過去の出来事から新たな知見を手に入れ、現代社会で応用することだと考えます。

あなたも近代日本、近代世界の功罪についてや戦争を避けるために必要なことを私と一緒に考えていこう!

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前回は国際協調派の苦悩について考えた

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中国の政権分立と国権回復運動の始まり(part1)

来日時の孫文(2列目中央)

辛亥革命後の中国と政権分立

ここでは少しばかり中国(中華民国)の歴史をたどっていきます。

1911年に辛亥革命がおこり、その翌年に中華民国が成立しました。中華革命党だった孫文は臨時大総統のポストについていました。当時の中華民国の首都は南京です。その当時は、新式軍隊・清朝時代立憲派との妥協の産物があったとされています。

しかし、その1年後1913年に北洋軍の創始者であった袁世凱が大総統となり、首都が北京に移りました。列強からの借款が独裁体制を生み出し、1915年に袁世凱は皇帝就任を宣言しました。

といっても、袁世凱は第一次世界大戦の勃発による列強からの借款が途絶えたことが関与しているかどうかは分かりませんが、1916年に急死してしまいました。

その後の中華民国はと呼ばれる派閥に属していた段祺瑞であり、彼は北京政府を樹立しました。これに対して、奉天派(満州付近に勢力を持っていた)の張作霖や直隸派の吳佩孚(ごはいふ)が対抗し、1920年に安直戦争(安徽派vs直隷派)が起こり、直隷派の勝利で幕を閉じました。

また、1922年の第一次奉直戦争では、張作霖が敗北し奉天に戻る羽目となり、1924年の第二次安直戦争では、馮玉祥(直隷派→国民党)という人物のクーデタによって直隷派は北京を追われる結果となりました。

最終的には、連合政権が誕生し、安徽派の段祺瑞が臨時執政を務めることになりました。ところが、これに対しても、孫文を大元帥とする広東軍政府が反抗します。

中国革命党は中国国民党に名を変え、1921年(ワシントン会議が開催された年)に孫文を臨時大総統とする第二次広東政府が誕生し、三民主義(民族・民権・民生)を唱え、列強に中国の正統政府として承認するよう要求しました。

米国は広東政権は1つの地方政権でしかなく、北京政府が正式な外交関係にあると、広東政権の要求を拒否する結論に達したのです。

中国共産党の結成と第一次国共合作

ロシア革命政府は世界革命の助長を受けたことで列強に対抗するようになり、1919年にコミンテルン(国際的な共産主義運動組織)を結成しました。

また、1921年に陳独秀らによって結成された中国共産党は、ソ連に中国国民党への働きかけを促しました。

孫文はソ連政府外交使節団長であったアドルフ・ヨッフェとの会談を、蒋介石はモスクワに派遣され、ソ連の政治体制を視察し、1924年に第一次国共合作(共産党員の国民党への入党を促進)が起こりました。

国民党は「連ソ、容共、工農扶助」をスローガンに掲げ、国民党の組織活動は飛躍的強化、職能別の国民会議へと発展したものの孫文は1925年に病死しました。

北伐の開始と国民政府による全国統一

1920年後半の中国(「昭和史講義」より抜粋)

1925年に広州で中華民国国民政府ができ、国民党左派の汪精衛が主席を務めました。ここで、左派とは共産系のことだと思ってくれれば大丈夫です。ちなみに、右派は保守的な存在のことを指します。

国民政府は、工人部・農民部の設置や国民党籍をもつ共産党員が主導でした。ソ連は政治顧問であったミハイル・ポロディンを派遣し、国民党西山会議派などがこれに反発しました。

国民革命軍は1925年に、黄埔軍官学校で養成された土官が中心となり、1926年に北伐が開始され、軍事力で北京政府の打倒をめざしました。武漢に到達したのは1927年でした。

武漢政府は国民党左派・共産党の影響力が強く、1927年4/12に上海クーデタがおこり、蒋介石(国民党右派)による南京国民政府の樹立へとつながりました。

共産党系の武装組織は解除され、汪精衛ら国民党左派は共産党の排除、そして1927年に南京政府に合流しました。国民革命軍が北京を占領したのは1928年6月のことで、それと同時に北伐が完了したのです。

張作霖は日本の関東軍将校による謀略で暗殺され(後の投稿で詳しく解説)、張作霖の息子の張学良は国民政府に恭順であり、後に中国を国民政府の下に統一した立役者となったのです。

一方、列強側はどの時点で国民政府を中国の正統政府として承認するかについて苦慮しました。北伐の過程でも戦闘に外国の居留民が巻き込まれることがあったりと、いろいろ問題はあったのです。

第一次世界大戦参戦と国権回復

そもそも中国はアヘン戦争による1842年の南京条約以後の不平等条約(関税自主権の喪失、 治外法権、外国租界・租借地、外国船舶の内水航行権、鉄道沿線や主要都市での外国軍隊の駐留など)に苦しんでいました。

また、日清戦争の敗北や義和団事件の敗北から国内を強化したのは、帝国主義時代の「旧外交」の典型であるといえますね。そして、その民族運動の高まりが国権回復運動につながったのです。

中国は第一次世界大戦への参戦で、敵国ドイツ・オーストリアの特権を自動的に否定できました。ウィルソン大統領の「14カ条」を「公理」として歓迎したものの、

1919年のヴェルサイユ講和会議では、中国の主張である「中国の参戦とともに、山東半島のドイツ利権は消滅し、中国に返還される」という要求は否定され、同時に列強諸国によって、山東利権は日本への譲渡を承認されてしまったのです。

よって、歴史の授業でも習ったように、ヴェルサイユ条約の調印拒否を求める「五・四運動」が起こり、国権回復運動の恒常化へと進んでいったのです。

まとめ~当時の中国はいろんな不平等を患っていた!

今回の内容はいかがだったでしょうか。

少しでも中国の国権回復運動(part1)に関して知ることができれば大丈夫です!(まずは知ることから何事も始まる)

次回は、その続き(part2)について解説していきますので、お楽しみに!!

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それでは今日はここまでとします。最後まで見ていただきありがとうございました。

また別の投稿でお会いしましょう。けいタン
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参考文献:「避けられた戦争(油井大三郎)」

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