近代日本の歴史 第26講~田中外交と対中国政策~212(集中講義㉖)

近代日本

こんにちは、けいタンです。

近代日本の歴史について説明します。

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今回取り上げるテーマは?

少し前から大学の集中講義のように連続して「近代日本の歴史」について解説しています。

参考した本は油井大三郎さんの「避けられた戦争」です。

第1講は話のプロローグとして、1920~1940年代の全体像を俯瞰的に眺めてみました。

第2,3講義は、ヴェルサイユ会議と日本について、第4講はヴェルサイユ条約の内容がいかに日本社会に影響を与えたのかについて、第5講は日米両軍による戦争計画について、

第6講は米国における共和党政権の誕生とワシントン会議の提起について、第7講はワシントン会議での対立と合意について、第8講は米国がなぜ「門戸開放」にこだわったのかについて、

第9講はワシントン会議に対する日本社会の対応について、第10講は日本における軍部権限抑制論の台頭について、第11講はワシントン条約に対する日本軍部の反応について、

第12,13講は米国の日系移民排斥と反米感情の噴出で1924年の移民法の成立について、第14,15講は1924年の米国移民法に対する日本社会の反発について、

第16講は国際協調派の苦悩について、第17,18講は中国の政権分立と国権回復運動の始まりについて、第19,20講は英米の帝国縮小戦略への転換について、第21,22講は第一次幣原外交と中国の国権回復運動について、

第23,24講は中国の国権回復と日本社会の反応について、第25講は田中義一内閣の成立について触れていきました。

そして今回第26講では、田中外交と対中国政策に関して考えていきましょう!

あなたに考えてもらいたいコト

この集中講義の最大の目的は「20世紀前半の世界の戦争について振り返るとともに、どうすれば戦争(対立・コントラスト)を避けることができるのか?」

…すなわち、戦争を避ける道はなかったのか(戦争以外の別の選択肢を取ることができなかったのか)?ということについて考えていきます。

今の現代社会でも、ウの国とロの国が対立しています。

そして同時に、近代日本の歴史を学習する最大の理由は、過去の出来事から新たな知見を手に入れ、現代社会で応用することだと考えます。

あなたも近代日本、近代世界の功罪についてや戦争を避けるために必要なことを私と一緒に考えていこう!

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↑田中義一は陸軍のエリートで在郷軍人会の父ともいわれた力のある人物の一人であった。しかも幣原とは異なり強硬派であった田中内閣について考えていこう!

陸軍のエリートであった田中義一

・合わせて読むべき関連記事:近代日本の歴史 第21講~第一次幣原外交と中国の国権回復運動(part1)
↑対中国不干渉の幣原喜重郎の協調外交は陸軍にとっては嬉しくなかった。その結果、陸軍が勝手な行動に出る二重外交が誕生してしまった…

・合わせて読むべき関連記事:近代日本の歴史 第19講~英米の帝国縮小戦略への転換(part1)
↑1925年5月30日に起こった上海クーデターは日本のみならず多くの列強諸国に衝撃を残した…そんな中で、英国や米国は新しい戦略を取ろうとしていた

田中外交と対中国政策

東方会議の様子(右から3番目が田中義一)

第一次山東出兵

田中義一外相はティリー駐日英国大使と1927年5月に会談し、「日英同盟の精神はいぜん活きている」と述べました。

そして、田中政権は居留民保護のための山東出兵(第一次山東出兵)を決断しました。具体的には、旅順では部隊を山東半島に、天津では日英米仏伊5カ国軍司令官会議に参加し、済南では日本軍が進出し、国民党政府が反発しました。

また、北伐軍は奉天軍(張作霖軍)に敗北し、蒋介石は司令官を辞任し下野(政界から去ること)しました。日本軍も9月半ばに撤退しましたが、武力衝突なしに居留民の安全確保という目的を達成することができました。

また、満鉄への米国資本の投資計画に関する協議を同年10月に行い、そこでは井上準之助日銀総裁やモルガン商会のラモント総支配人などが参加しました。

東方会議の開催

田中外相は幣原外交とは異なる対中政策の明確化し、対中政策について外務省と軍部のズレを調整するようにしました。

そのため、1927年6月末に東京で東方会議を開催し、森恪外務政務次官を主導(議長、進行役、討論家)に、吉田茂(奉天総領事)などが出席し、主に満洲経営…日本自らの国力・政策について討論したのです。

「対支政策綱領」の意味

田中外相は同年7月7日に「対支政策綱領」を提案し、以下の内容についてまとめました。

「①中国内乱への不干渉」「②中国穏健派の国民的願望への支援」「③中国の全国統一の機運を待つ」「④中国における日本の権利、在留邦人の生命財産→不法に侵害される場合、断乎として自衛の措置ににでる」

「⑤満蒙東北における門戸開放」「⑥満蒙における日本の特殊地位を尊重する東三省の有力者へ適宜指示(従来からの張作霖支持の継続を暗示)」「➆満蒙に動乱が及び、日本の特殊地位が侵害される恐れがある時→適当な措置にでる(軍事行動の発動を匂わせる)」

という7つですが特徴として、満蒙を中国本土から分離し、日本の「特殊地位」を防衛する強い姿勢を明確化している点であるということです。

「田中上奏文」の真相

東方会議の直後に中国の新聞では、対満蒙強攻策を天皇に上奏するという「田中上奏文」が掲載されており、「支那を征服せんと欲すれば、まず満蒙を征服せざるべからず、世界を征服せんと欲すれば、必ずまず支那を征服せざるべからず」という内容が記載されていました。

ちなみに、この田中上奏文は終戦後の極東国際軍事判(東京裁判)法廷で中国側証人が、日本の計画的な戦略政策の証拠として提出したものでもあります。

このようなことに対して「田中義一会記」の筆者は、田中上奏文は偽書であり、その内容は関東軍の若手将校が抱く共有の構想だと考えており、その根拠として、鈴木貞一元陸軍中将の記録があると主張しています。

「対支政策網領」の日本と英米の溝

英国は1926年12月に、不平等条約の改正や国民党政府に接近するといった対中政策の転換を行い、1928年12月に、中国の関税自主権を承認しました。

また、米国は1927年1月にケロッグ国務長官声明で、中国の条約改正に応じる意向を示しており、1928年7月には国民党政府との新通商条約の締結…つまり、関税自主権の承認および事実上の国民党政府の承認を行いました。

ところが一方で、田中政権は満蒙死守のため、政策転換(国民党政権の中国統一)に踏み切れず、英米と溝が生まれたといえざるを得ませんね。

田中義一と蒋介石の非公式会談

蒋介石の来日したのは1927年9月のことで、長崎に来ました。表向きの目的は、宋美麗との結婚…つまり、美麗の母(有馬温泉)の許可を得ることでしたが、真の目的は田中内閣の対中政策の真意を探ることでした。

実際に、同年11月5日に田中首相の私邸で田中首相と会談を行いました。

平行線に終わった会談

その会談についてですが、まず田中は蒋介石に対して華南の支配に専念、華北に侵攻しないよう勧めました。また、蒋介石は内部が複雑な国民革命軍の維持のためにも北伐が必要と主張しました。

すなわち、蔣介石にとって中国の統一は国民の希望であり、北伐続行への理解を求めたのです。日本も軍閥支援を止め、国民革命を支持することで、満蒙問題の解決…つまり、排日もおさまると考えたのです。

しかしながら、田中は満蒙利権の死守にこだわり、張作霖ら華北軍閥支援の姿勢を変えなかったのです。

実際に、蒋介石は1927年4月に共産党・ソ連の影響を排除する運動である反共クーデタを起こし、反共の立場…すなわち、実は日本が国民革命を敵視する理由は希薄だったのです。

したがって、もし日本が蒋介石の国民革命支持に転換すれば、中国の排日運動が鎮静化され、田中が必要以上に固執していた満蒙利権も守られた可能性があったかもしれません。

歴史とは、そんなものです。なんか人間関係と似ていますね。あのとき、あんな発言・考えをしなかったら…中国とももっとまし(良好)な外交を結べていたかもしれませんね…。あなたはどのような考えを持っていますか?ぜひ、コメント欄で教えてください!

まとめ~蒋介石の主張を拒否する明確な理由はあったのか?!

今回の内容はいかがだったでしょうか。

少しでも田中外交と対中国政策に関して知ることができれば大丈夫です!(まずは知ることから何事も始まる)

次回は、済南事件と中国の排日運動激化について解説していきますので、お楽しみに!!

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それでは今日はここまでとします。最後まで見ていただきありがとうございました。

また別の投稿でお会いしましょう。けいタン
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参考文献:「避けられた戦争(油井大三郎)」

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