こんにちは、けいタンです。
近代日本の歴史について説明します。
今回取り上げるテーマは?
少し前から大学の集中講義のように連続して「近代日本の歴史」について解説しています。
参考した本は油井大三郎さんの「避けられた戦争」です。
第1講は話のプロローグとして、1920~1940年代の全体像を俯瞰的に眺めてみました。
第2,3講義は、ヴェルサイユ会議と日本について、第4講はヴェルサイユ条約の内容がいかに日本社会に影響を与えたのかについて、第5講は日米両軍による戦争計画について、
第6講は米国における共和党政権の誕生とワシントン会議の提起について、第7講はワシントン会議での対立と合意について、第8講は米国がなぜ「門戸開放」にこだわったのかについて、第9講はワシントン会議に対する日本社会の対応について触れていきました。
そして今回第10講では、日本における軍部権限抑制論の台頭に関して考えていきましょう!
あなたに考えてもらいたいコト
この集中講義の最大の目的は「20世紀前半の世界の戦争について振り返るとともに、どうすれば戦争(対立・コントラスト)を避けることができるのか?」
…すなわち、戦争を避ける道はなかったのか(戦争以外の別の選択肢を取ることができなかったのか)?ということについて考えていきます。
今の現代社会でも、ウの国とロの国が対立しています。
そして同時に、近代日本の歴史を学習する最大の理由は、過去の出来事から新たな知見を手に入れ、現代社会で応用することだと考えます。
あなたも近代日本、近代世界の功罪についてや戦争を避けるために必要なことを私と一緒に考えていこう!
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日本における軍部権限抑制論の台頭
大正デモクラシーと軍部抑制の模索
1910~20年の日本は民主政治とそれに対抗する軍部との接触がいくたびありました。
例えば、第二次西園寺公望内閣のときには、陸軍の二個師団増設要求が拒否され、これに対して、上原勇作陸相が「帷幄上奏権」…すなわち、天皇に直接辞表を提出したことで西園寺内閣は1912年に崩壊してしまいました。
他にも、1914年のシーメンス事件によって山本権兵衛内閣は総辞職し、海軍の権威に傷をつけてしまいました。また、1918〜1922年のシベリア出兵では、日本に対する国際的批判や陸軍への批判が集まり、それによって軍部批判が高まる結果となったのです。
よって、政党政治家は軍部権限を抑制する提案をします。例えば、立憲国民党の犬養毅は1914年に臨時国防会議設置の提案をし、国会可決となりましたが、会議のメンバーが軍人多数だったために初期の目的は達成できずでした。
また、立憲国民党の植原悦二郎は1919年に国会への質問書に「軍部大臣現役武官制は憲政発達の障壁」と言及しています。
軍部大臣現役武官制とは、簡単に言えば、「陸軍大臣や海軍大臣は現役の軍人しかなれない」という制度です。つまり当時の制度では、文官(政党政治家)は陸軍大臣や海軍大臣になることができなかったのです。
他にも、原敬内閣は植民地総督の文武官併用制の採用や海相管理事務など、文民統制への手ががりといえるであろう功績を残しています。
このように1920年代の日本は軍部よりも大正デモクラシー…すなわち、民主政治が軍部を抑制していた比較的安全な時代だったといえます。
第一次世界大戦後の軍縮ムードの高まり
1920年代はじめは「軍人が軍服を着て歩くのが肩身が狭かった時代」といわれるぐらい、軍縮ムードの高まりが力を持っていたのです。これこそ民主政治・民主主義なのです。
話は少しそれますが、今の日本は民主主義国家といえるでしょうか?私はあまりそうは思いませんね。国葬の件についても国民の半分以上が反対しているのにもかかわらず、内閣が閣議決定で半強制的(強制)で決めたのが民主主義が欠如している具体的な事例の1つに思えます。あなたはどう思いますか?投稿記事の下部にあるコメント欄であなたの意見をぜひ私に聞かせてください!
では、話をもとに戻していきます。犬養毅は1921年に国民党大会というものを開き、そこで「産業立国主義」の提唱をしました。そこには、行財政改革・軍縮などが含まれていました。
また、尾崎行雄、吉野作造などによる「軍備縮小同志会」では、「軍縮・太平洋及び極東の争因の排除・軍国主義の打破・平和政策の確立」が論じられ、『東京日日新聞』でも「陸軍軍備縮小」が記載されていました。
このような民主政治・国民の動きに押し負けるかのように、山梨半造陸相(1922〜1923)は当時の軍事予算の15%にあたる約6万人の兵員削減を実行しました。また、宇垣一成陸相(1925)も装備の近代化・軍事教練の導入・4個師団の削減など軍縮に基づいた行動をとったのです。
軍令と軍政の構造的欠陥
明治憲法では、
第11条「天皇は陸海軍を統制す」…これは軍令(軍の動員、作戦行動について指揮命令)に関わる権限は天皇にあるものだとしています。
第12条「天皇は陸海軍の編成及常備兵額を定む」…これは軍政(軍の兵力量・装備の整備、そのための予算の確保・配分)も天皇にあるとしています。
当たり前ですが、国家の予算編成は政府の権限です。そして、天皇は「統治権の総覧者」の大権行為があり、国務大臣の輔弼(補佐)がありました。
軍政(軍事予算に関わる)は政府にも関与し、軍令は専ら軍部の権限であったので、二重性…すなわち、天皇によって統一される建前というものがありました。(天皇は「立憲君主」として直接的な政治関与を自制する建前)
しかしこのような法的構造では軍部が天皇の権威を借りて、暴走しやすい性質があり、実際にも何度か軍部が暴走した事件が起こりました。
吉野作造の帷幄上奏批判
吉野作造の「二重政府と帷幄上」(1922)では、軍令と軍政の二重構造、言い換えて表現すると「二重政府」が当時の歴史には存在し、統帥権が内閣の補弼事項に含まれていたのです。
また、軍部に対する「文民統制」の導入を明治憲法の立憲主義の徹底を軍部にも求めました。このような背景には、大正デモクラシーの高揚があったのは言うまでもありませんね。
まとめ~軍部と民主政治が交わる時代が到来する!
今回の内容はいかがだったでしょうか。
少しでも日本における軍部権限抑制論の台頭に関して知ることができれば大丈夫です!(まずは知ることから何事も始まる)
次回は、ワシントン条約に対する日本軍部の反応について解説していきますので、お楽しみに!!
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それでは今日はここまでとします。最後まで見ていただきありがとうございました。
また別の投稿でお会いしましょう。けいタン
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