こんにちは、けいタンです。
近代日本の歴史について説明します。
今回取り上げるテーマは?
少し前から大学の集中講義のように連続して「近代日本の歴史」について解説しています。
参考した本は油井大三郎さんの「避けられた戦争」です。
第1講は話のプロローグとして、1920~1940年代の全体像を俯瞰的に眺めてみました。
第2,3講義は、ヴェルサイユ会議と日本について、第4講はヴェルサイユ条約の内容がいかに日本社会に影響を与えたのかについて、第5講は日米両軍による戦争計画について、
第6講は米国における共和党政権の誕生とワシントン会議の提起について、第7講はワシントン会議での対立と合意について、第8講は米国がなぜ「門戸開放」にこだわったのかについて、
第9講はワシントン会議に対する日本社会の対応について、第10講は日本における軍部権限抑制論の台頭について触れていきました。
そして今回第11講では、ワシントン条約に対する日本軍部の反応に関して考えていきましょう!
あなたに考えてもらいたいコト
この集中講義の最大の目的は「20世紀前半の世界の戦争について振り返るとともに、どうすれば戦争(対立・コントラスト)を避けることができるのか?」
…すなわち、戦争を避ける道はなかったのか(戦争以外の別の選択肢を取ることができなかったのか)?ということについて考えていきます。
今の現代社会でも、ウの国とロの国が対立しています。
そして同時に、近代日本の歴史を学習する最大の理由は、過去の出来事から新たな知見を手に入れ、現代社会で応用することだと考えます。
あなたも近代日本、近代世界の功罪についてや戦争を避けるために必要なことを私と一緒に考えていこう!
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ワシントン条約に対する日本軍部の反応
海軍軍縮条約をめぐる海軍内部の対立
復習にはなりますが、ワシントン会議で日本の主席全権だった加藤友三郎海相は主力艦の保持率を対米6割で妥協しました。(太平洋上の米戦力の現状維持という条件のもとで)
しかし、今後の戦争は第一次世界大戦のような総力戦で、現時点で将来日本が戦争をする可能性はアメリカのみでした。まあ、実際には中国などとも戦争をしたのですがね…
一方で必要な資金はアメリカ以外から調達できず、対米戦争は不可能といったジレンマ(矛盾)が発生しているような時代でもありました。すなわち、対米戦の一時的な回避論者が現れたのです。
海軍主席随員であった加藤寛治は主力艦対米7割の維持が必要であるとともに、将来の対米戦は短期決戦になるだろうと考えていました。まあ、歴史を知っている私たちだから言えることですが、そのような短期でなんとかなるという甘い考えが、日本の敗戦の原因の1つであったかもしれませんね。
対米7割の維持については、後のロンドン海軍軍縮交渉でも登場する話なので、またそこでお話しすることにしましょう。「統帥権干犯」論争も合わせて。
日本陸軍の軍縮対応と1923(大正12)年の国防方針改定
参謀本部第二部長でなおかつ陸主席委員であった田中国重は上原勇作参謀総長に対して、「ワシントン会議は事実上、米国の勝利であり、日本の敗北である」と。
また、宇垣一成は南進を自重し、北進を図る動きを見せました。このように軍部としては、ワシントン条約の内容はあまりうれしくない結果となりましたが、私たち民間人の視点で考えると、ワシントン会議での譲歩は日米戦争の回避につながる非常に大きな動きであったと感じます。
現在の社会情勢で考えてみても、なかなか不安定な雰囲気が漂っていますよね。核を持つのか持たないのか…という議論以前に戦争が起こらないように国連や世界条約(国際法)について考えた方がいいのではと個人的に思います。まあ、国連は全くといって機能していませんがね…
話をもとに戻して、次は1923(大正12)年の国防方針改定について考えていきます。
陸軍の希望は宇垣一成の考えのように、「南守北進」でした。そのため海軍の反発を食らっていたのです。なにせ海軍の希望は「北守南進」でしたからね…そりゃ考え方の違いで陸軍と海軍が反発するのは小学生でもわかることです。
しかし、東亜全体への進出はワシントン条約との矛盾が表面化するおそれもありました。
また、国防の目的を一般的に規定し、第一の脅威が米国であると考えました。例えば、対中経済侵略政策では、「帝国の地位を脅かし、遂には帝国の隠忍自重を許されなくしている」「経済問題と人種的偏見(移民排)とに根ざす多年の紛争は其解決至難」「早晩帝国と衝突を惹起すべきは蓋し必至の勢いにして、我国防上最大視すべき」などの意見(批判)が出てきました。
米国が脅威であると考えつつも、当時の日本は総力戦への対応策はなく、勝機を見出すことができませんでした。参考文献である「避けられた戦争」の著者である油井先生も「日米間の国力の冷静な分析に基づいて、日米戦回避の提案をなぜ出せなかったのか」と述べていますが、私もまったく同じことを当時の日本に対して思っていました。
ワシントン体制は存在したのか?
日米関係史(ジャーナリスト・プロフェッショナル)の一人である細谷千博はワシントン体制の特質として、「日・米・英の協調システム」を挙げています。
なぜなら、ワシントン体制では、第一次世界大戦前の二国間政治提携(帝国主義的外交方式)の否定をめざすとともに新たな多数国間の提携システムの設定を試みたものであり、「旧外交」にかえる「新外交」の理念にもとづく、東アジアの新たな国際政治の実現を踏まえたものだからです。
また、同じく日米関係史の麻田貞雄は、「ウィルソン的国際秩序」は東アジアにおいて形成され、「ワシントン体制」は先ほどの細谷千博と同じような日・米・英の地域的な国際協調システムだと解釈しています。
それと同時に太平洋は軍備システム(東アジアの相対的安定化のための政治的提携システム)で、ワシントン会議は「幣原外交(協調外交・対中国不干渉)」の出発点であったと評論しています。
一方で、日英関係史のイアン・ニッシュは、ワシントン体制の概念そのものに対しては懐疑的な議論であったと考え、実際に英国や東アジアが、米国主導の新秩序成立と認識していた史料はないと言及しています。
さらには、中国に対する差別待遇を問題視し、ヴェルサイユ・ワシントン体制は日本軍の中国侵略を抑止する働きがあったのではと考察しています。
このようにいろいろなジャーナリストの評価がありますが、ワシントン体制は安定性を持っていたのでしょうか?確かに、海軍軍縮条約の締結国は比率を遵守しているので、「体制」という表現は使用可能ではないでしょうか。
しかしながら、ソ連はワシントン会議から除外され(革命外交(コミンテルン)で対抗)、中国にとっては具体的な国権回復の要求が満たされず、不満がありました。その点、不安定性もいくつかあったといえるでしょう。なので結局のところ、このような矛盾を抱えた存在が「ワシントン体制」といっても違いありませんね。
まとめ~ワシントン体制にはいろいろな矛盾が含まれていた!
今回の内容はいかがだったでしょうか。
少しでもワシントン体制に関して知ることができれば大丈夫です!(まずは知ることから何事も始まる)
次回は、米国の日系移民排斥と反米感情の噴出について解説していきますので、お楽しみに!!
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それでは今日はここまでとします。最後まで見ていただきありがとうございました。
また別の投稿でお会いしましょう。けいタン
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